1.
前回、英語の進行形の表現を 感覚を通じた観察体験の報告に類比する、というアイデアに注目した。(Jacobus van der Laanのように、この線に沿って進行形の考察を進めた論者も存在した。)
しかし、進行形を使った記述は、必ずしも、事象が現実に観察されていることの表現とは言えないことを確認した。
ただし、事象を「あたかも観察されているかのように」表現する、とは言えるかもしれない。確かに、そのような直観は追及してみる価値があるかもしれない。
進行形を直接的観察の表現と見なしたVan der Laanは、同時に、発話者の注意あるいは関心が進行形の使用に必須であると主張していた。その点では、細江逸記の主張にも共通するところがある。彼らの他にも、進行形と話者の注意集中、没頭との関連に注目し、進行形のそれらに対する強調機能を重視する論者は少なくない。(A.G.Hatcher, J. Scheffer等)
だが、わたしがその像を、たとえば単にそういう風に理解している(その像が何を表しているはずであるか、知っている)のみではなく、そう見ている、ということの表現は何であろうか?(PPF169)
注意を惹かれるAuffallenというのは、<見つめることSchauen+考えること> なのか。否。数多くの概念がここで交差している。(LPPⅠ710 古田訳, cf.PPF245)
では、私が「われわれは肖像画を人そのものととみなすbetrachten」と言う時-いつ、また、どれだけの間、われわれはそうするのか?われわれがそれを見ている間(そして、別の何かとして見ていない間)つねに、であろうか?
私は、これを肯定することできるが、それによって みなすBetrachten という概念を規定ことになるだろう。-問題は、これに関連した別の概念が、なおわれわれにとって重要となるかどうかである。即ち、そのように見る という概念、しかも私が、像に対して、それが描き出された対象そのものであるように没入するbeschäftigen場合にのみに適用されるような、そのように見る という概念が。(PPF199)
半過去で何らかの事態を述べる場合、発話者の視点は過去空間へと移動している。これは取りも直さず、半過去の使用時には発話空間とは別の認識空間としての過去空間が構成されているということである。(・・・)発話者の視点が過去空間へ移動するということは、発話者が「観察者としての自分」(春木 1993)を過去空間に置いて語るということである。(春木仁孝、半過去の統一的理解を目指して)
ある事態を半過去で表すことが出来るためには、その事態を「継続中」のこととして捉えている必要があります。(・・・)継続中として捉えるということは、話す人があたかも過去のその事態が起こっているさなかにいるかのように捉えるということです。(春木仁孝、半過去は難しくない)
IMP(直説法半過去)の多様な用法と振る舞いの奥には、抽象的ではあるが簡単な原理が潜んでいる。それはIMPは「別のどこかで別の誰かが観察していること」を表しているということである。これは(・・・)IMPに対する直観としてはごくありふれたものであり、おそらく多くの人が感じていることであろう。(大久保伸子、フランス語の半過去の未完了性と非自立性について)
(11)半過去のはたらきに関する仮説
a. 表す事行のアスペクトは、非完了である。
b. 表す事行を含む事態は、過去スペースにいる気持ちになっている発話者(ときに語りの登場人物)がそこにあるととらえる事態である。
(曽我祐典、フランス語の半過去形と非完了アスペクト)
(11b.)の「そこにあるととらえる」のとらえかたには、視覚・聴覚などの感覚による、思考・想像による、他者から得られた情報によるなど、さまざまなものがあると考えられる。(曽我、同上)