2つの使用

1.
まず、『探究 Ⅱ』xi節の有名な冒頭で既に文法的使用の問題との連関が示唆されていることを手短に示したい。

最初に、以前引用した、次の講義の一節を見てみよう。

 良い表現の仕方ではないが、次のように言うことができよう。「同じ」、「似ている」、「類似した」といった語はそれぞれ、2つの違った意味で使用されると。(私はこの講義の中で、これらの言葉について多くのことを語るであろうが、それらの内の一つについて言うことは、それらのどれにも当てはまるであろう)
(・・・)
「われわれは、彼に100までの掛け算を教えた、それから、彼は同じように行った」「君に、これに似たものを描いてもらいたいのだ」ーわれわれは何を語っているのか?
他方、子供にある過程が他の過程に類似していることを示そうとする場合は、こう言う、「ご覧、これはあれには似ていない。でも、これはこちらのものに似ている。確かに、この2つは似ているね」「こうすることに似ているものは?これ?それとも、これかな?」等。-さて、ここでは、われわれはどんな種類のことを言っているのだろう?本当のところ何を?この場合、我々は何かを記述しているのだろうか?はじめの場合では、われわれはあるものを記述していた。しかし、今度の場合は「似ている」のもう一つの使い方の例なのだ。
(1) われわれは、ある特定のパターン、例えば、壁紙のパターンを記述して言う、「それは、これこれに類似している」
(2)「これは類似したケースであるが、あれはそうではない」-これは前者とは非常に異なっている。この場合、われわれは二つのものを前にしている。ところが、前の場合、我々はただ一つのものを前にして、「類似した」という言葉によってもう一つのものを記述していた(あるいは、他者に新たな行為を命じていた)。
(・・・)
だが、もう一方の場合には、われわれは、2つのものを前にしており、事情は全く異なっているのだ。私が「確かに、104と書くことが同じように行為するということだ」「確かに、これは同じパターンである」と言う場合-私は彼に「同じ」という言葉で自分が何を意味しているか語っているのだ。(LFM p58-59)

xi 節の冒頭で取り上げられる、「見る」の2つの使用の対比は、この「2つの違った意味での使用」の対比に相似していることを確認しよう。

 「見る」という語の2つの使用。
その一つ:「君はそこに何をみるか?」-「私はこれを見る」(そして、記述、描画、模写があとに続く)。もう一つ:「私はこれら2つの顔に類似を見る。」-私がこれを伝える当の人は、私と同じく明瞭にこれらの顔を見ていてもよい。
重要なこと:見る の2つの「対象」のカテゴリー的な差異。
一方の人が2つの顔の正確な描画を描き、他方の人がその描画の中に、描いた人の見ていない類似を認知する、ということがありえるだろう。(PPF111,112 cf.RPPⅠ1068,)

 2つの引用の中の類似がわかりにくければ、後者の「私はこれを見る」を「私はこれに似たものを見る。」と言い換えてみよう。
「私はこれに似たものを見る。」では、「我々はただ一つのものを前にして、「類似した(似た)」という言葉によってもう一つのものを記述していた」と述べられる環境にある。。
それに対し、「私はこれら2つの顔に類似を見る。」では、「われわれは二つのものを前にしている」。そのことは、「私がこれを伝える当の人は、私と同じく明瞭にこれらの顔を見ていてもよい」という文章に示されている。

2.
同様の対比を扱った文章をさらに2つほど引用する。

 

私が誰かに掛け算を教えたとする。だが公式化された一般的規則を援用しないで、私が例をやってみせるのをかれが見る、というやり方だけによるとする。そのとき、私は、かれに新しい問題を書いてやり、「この二数で私が前にやったのと同じことをやり給え」ということができる。だがこうもいうことができる。「君がこの二数で、私が他の数でやったことをやれば、数・・・に到るだろう。」これはいかなる種類の命題か。
「君はしかじかのことを書くだろう」は一つの予言である。<君がしかじかのことを書けば、私がやって見せたような仕方で、それをやったことになる>は、かれが「かれの例に従う」と呼ぶものを規定している。(RFM Ⅶ 4 中村秀吉・藤田晋吾訳p320)

 ある言語ゲームがある。ある物体が他の物体より明るいか暗いかについて報告する、というものである。ーところで、それと似たもう一つの言語ゲームがある:特定の色調の明るさの関係について言明する、というものである。(二つの棒の長さの関係を規定することと、二つの数の関係を規定することとを、この二つの言語ゲームと対比することができよう。)-二つの言語ゲームにおける命題の形式は『XはYより明るい』という同じ形式になる。しかし前者においてはそのXとYの関係は外的関係であり、その命題が時間的なもの(zeitlich)であるのに対して、後者においてはその関係は内的関係であり、その命題は無時間的なもの(zeitlos)となる。(RCⅠ1 中村昇・瀬島貞徳訳)

 ここでウィトゲンシュタインが取り上げている2つの使用の差異、、それは、彼の言葉で言うなら、「概念の使用」(あるいは「意味使用」とも言う。cf.RFMⅢ 37)と「概念の規定」(あるいは「意味規定」)の差異である。この差異は、経験的命題と文法的命題との差異に対応する。あるいは、上の引用が示すように、彼は「時間的」命題と「無時間的」命題という言い方もする。重要なこととして、同じ命題が、時間的にも、無時間的にも使用されうることが指摘されている。

『探究Ⅰ』から、189節を見よう。

 他方、われわれは、さまざまな種類の式、および、それらに付随するさまざまな種類の適用(さまざまな種類の訓練)を互いに対比させることができる。そのとき、われわれは、一定の種類の式(およびそれらの然るべき適用法)を「与えられた一つのxに対して一つのyを決定する式」と呼び、他の種類の式を「与えられた一つのxに対して数yを決定しない式」というように呼ぶ。(y=x^2が第一の種類、y≠x^2が第二の種類であろう。)このとき、「・・・なる式は数yを決定する」という命題は、式の形式に関する言明である。ーそして、いまや「わたくしの書きつけた式がyを決定する」とか「ここにyを決定する式がある」とかいった命題が、「式y=x^2は与えられた一つのxに対して数yを決定する」といった種類の命題から区別されなくてはならないのである。(PI189 藤本隆志訳)

 ここでもウィトゲンシュタインは概念使用(「わたくしの書きつけた式がyを決定する」「ここにyを決定する式がある」)と、概念規定(「式y=x^2は与えられた一つのxに対して数yを決定する」)を区別しようとしている。

 私がいつもやっていることはー意味規定と意味使用の間のある相異を浮彫りにすることーであるようにみえる。(RFMⅢ 37 中村・藤田訳p162)

 3.

ここで『探究Ⅱ』xi冒頭の例を振り返れば、「私はこれら2つに類似を見る」や「私はこれら2つに同一性を見る」という言明は、この場面における「類似」「同一性」の意味規定にも使用され得ることに気づく。いいかえれば、文法的命題の役割を果たすことが可能なことに。(その場合、語りかけられた人が、語られている2つの対象を了解していることが条件となる。)
つまり、他者の「私はこれら2つに類似を見る」という発言によって、話しかけられた者は、例えば、見過ごしていた類似(A=B)に気づくことができよう。「私はこれら2つ(AとB)に類似を見る」「私はこれら2つ(AとB)に同一性を見る」は、いわば、定義や定理としての「A=B」に類比的に使用されることが可能である。

 「わたしはその2つが類似しているのをみる」は、「その2つ」がどのように定義されているかに応じて、時間的にも、無時間的にも用いられうる。だが、そのことは、わたしがそれぞれの場合に、異なったものをみていることをいみするのだろうか?「私は見る」は常に時間的であるが、「その2つは類似している」は無時間的でありうる。(LPPⅠ 152)

 それは、下の例のように、「この絵のなかにこの図が含まれているのを見よ!」という発言が、無時間的な関係に注意を促すのに類似する。

 もし私が、「ほら見て!この絵(Bild)のなかにこの図(Figur)が含まれている」と言うなら、-そのとき私は幾何学的な所見を述べているのだろうか。ーこれが「この絵」の正確な模写なのではないか。「この絵」というのは、いま私が述べたような特定の言葉[「この絵のなかにこの図が含まれている」]によって記述されうるものではないだろうか。そうであるなら、この絵のなかにいまこの図が含まれているとか含まれていたと言うことは意味を成すのだろうか。-[そうとは言いがたい。]それゆえ、いま私が述べた所見は無時間的であり、「幾何学的」と呼ばれうるのである。(LPPⅠ 146 古田徹也訳)

 ここで、「時間的」「無時間的」とはどういうことを意味するか?前者が概念使用、後者が概念規定に相当するが、例によって、ウィトゲンシュタイン自身がそれを明快に定義しているわけではない。

一つの試みとして、2つの種類の命題それぞれに、現在以外の時制を取らせてみよう。
概念使用の命題としての「XはYより明るい」「私はAを見る」の場合-「・・・の時刻に、XはYより明るかった。」「…の時刻に、私は、Aを見た」ーこれらが過去の出来事を報告するものである限り、問題はない。
これに対し、概念規定の命題としての「XはYより明るい」「私はこの2つに類似を見る」の場合-「・・・の時刻に、XはYより明るかった。」「…の時刻に、私はこの2つに類似を見た」ー時刻への言及は、この文の使用目的が「概念の規定」にある場合にはirrelevantである。それはあたかも、「昨日、2+3=5だった」と言うようなものである。
(だが、「無時間的」に使用される命題は、必ず現在時制でなければならないのだろうか?問題が「使用」にあるなら、過去時制や未来時制で言われてもよいのではないか?このような問いも起こってくるだろう。cf.RPPⅡ440)

なお、RCⅠ1が、「確実性」の執筆と重なる最晩年、1951年3月に書かれている(ただし、1950年春に書かれたRCⅢ131とほぼ同じ内容である)ことに注意しよう。「確実性」の時期にも二つの区別がウィトゲンシュタインの中で生きていたことは重要であり、忘れてはならない。

4.
しかし、「私はこれら2つ(AとB)に類似を見る」には、「A=B」にない要素が姿を現している。それは、言うまでもなく、「知覚の主体」である。


普通の文法的命題には「知覚の主体」が登場せず、しかも無時間的に使用される。
それに対し、「私はこれら2つに類似を見る」は、概念規定のみに用いられるわけではなく、出来事の報告でもあり得ることは明らかである。例えば、特定の心理学的実験においては、「私はこれら2つに類似を見る」は、被実験者の、その時点における視覚の状態を伝える発言であるかもしれない(「視覚体験の表現」)。(cf.PPF138)

あるいは、2つの顔が、話し手には知られているが、聞き手には知られていない場合、「私は2つの顔に類似を見る」は、報告の役目をする発言でありうる。その場合、2つの顔に関する報告にも、話し手の体験に関する報告にもなりうることに注意しよう。

 「彼とその父親が似ていることが、私には、数分の間、気になったが、その後はもう気にならなくなった。」彼の顔つきが変化して、短い間だけ彼の父親に似て見えた場合、このように言うことができよう。しかし、次のようなことも意味しうるだろう:数分の後、その類似は、もはやわたしの注意を惹かなかった。(PPF239)

 「・・・を・・・として見る」という発言も、それが発言主体の個人的体験の表出にとどまり、他者にとってそれ以上の関心を惹かない場合もある。

 人は、よく色彩を母音に結びつける。ある母音が連続して何度も発音されたとき、そのような人々にとって、その色を変化させるということもありえるだろう。aは、そんな人にとって、「今、青であり、-今、赤である」と言う風に。
「私は、今、それを・・・として見る」という表出が、「今、aは、私には、赤である」という表出以上のことを意味していないこともありえるのだ。
(そのような変化でも、生理学的観察と結びついて、われわれに重要なものとなることはあるだろう。)(PPF177)

 PPF111で言われた「2つの使用」の前者(「私はこれを見る」)にも、「知覚対象の報告」と「知覚体験の報告」という、2つの相を区別できるであろう。