認知の時間

 

1.

簡単な計算を例にして、数学における「過程と結果の同等性」(RFMⅠ82)という観念、ウィトゲンシュタインが「円環をまわる」(RFM Ⅵ 8)と呼んだ行動様式についてみてきた。

『論考』においても、論理学の命題の証明が論題に上がることで、証明の「過程」という時間的エレメントが登場していたが、そこでは「証明」という営みはネガティブな仕方でのみ問題にされていた。(TLP6.126-6.1265を参照)
それに対し、『数学の基礎』では、卑近で具体的な数え上げや計算の現場が取り上げられており、考察の仕方に大きな転換があることは明らかである。

 

しかし、「三角形の内角の和は180°である」のような数学的命題について、数学的対象とその内的性質という構図で捉えるなら、ふたたび時間的エレメントは姿を消すように思われた。
さて、そのような、時間的エレメントの消滅した世界こそが、『論考』における「論理」の世界なのであり、ゆえに「論理学にとっては証明は本質的ではない((TLP6.126)」と言われたのである。

 

しかし、われわれが論理の命題や「三角形の内角の和は180°である」のような数学的命題の「証明」を必要とするのはなぜか。

また、そもそも、「三角形の内角の和は180°である」のような数学的命題が、われわれにとって、認識的あるいは実用的価値をもっているのはなぜか。


言うまでもなく、われわれは「数学的対象」の「内的性質」をただちには認知しがたいからである。

われわれにとって、数学的命題に「価値」があるのは、言わば、それが大なり小なり「見渡しübersehenえない」からである。その認知に時間がかかるような内容、「自明」ではない内容を表す命題こそ、われわれには認識的ないし実用的価値があるのだ(cf.RFMⅠ 76)。それらの命題は「異なる技術をつないでいる」のである。

2.

そうすると、操作と結果の場合に類似した「円環」をここにも認めることができる。
「操作」に対応する時間的エレメントは「認識」の過程である。
ある「対象」を探索した結果、ある「内的性質」が欠けていることが判明したなら、それは実は 当の「対象」ではなかったのである。

 

 3.

しかし、「2+1=3」のように、あるいは、「pかつqならば、p」のように、われわれが「即座に」了解する命題、「完全に見渡せる」命題が存在する。

それらは「価値」がないのか、認識的価値は小さいとしても真理としての価値はどうであるのか、というような素朴な?疑問はここでは措いておく。

ウィトゲンシュタインがそこに見ていた問題は、それとは異なる方向からのものであった。

『数学の基礎講義』において、その問題は最後の最後に登場する。

もうひとつポイントが、大変に重要なポイントがある。今は、明確にし切れないが。

ある仕方で数えると、ある結果に至り、別の仕方で数えると別の結果になる、というようなことは、一見ありそうにないと思われるだろう。「きっと、どこかで間違ったに違いない。」

掛け算、足し算、というような計算に関して、それらの計算を意味する際に、われわれは特定の種類の例を範例とする傾向にある。

数えることに関してまちがいが起こったか否かをわれわれが知らないという事態を想像するのが難しい理由のひとつとして、われわれが計算の範例を2+2=4のような例にとる、という事実がある。つまり、われわれが一目でat a glance見て取れるような例をわれわれは考えるからである。そのような例では視覚的まとまりvisual groupによる規準が存在する。しかし、もっと大きな数による例では、そのようなものは存在しない。・・・

われわれは、指を使う計算や、特定の相貌a particular faceを持った数による計算を例とする。そのような相貌は、10,000という数には存在しないのだ。

(WLFM p292-293)

数学の初等的、原初的な部分においては、視覚的まとまりvisual groupや相貌a particular face(Aspectと呼んでもよいだろう)があって「一目でat a glance」(即座に)見て取れるもの、完全に見渡せるもの がわれわれにとっての範例となる。

そのことの影響をウィトゲンシュタインは問おうとしていた。そこに、「数学の基礎」論と「心理学の哲学」の、もうひとつの接点が存在した。そして、アスペクト知覚の問題が、その2つのジャンクションでもあることが、予感されてくるであろう。

それについて探求するには、アスペクト知覚論にかえって、「知覚することと、単に知ることとの違い」という重要なテーマの考察を深める必要があるだろう。もちろん、今すぐ可能なことではないが。

 

<追記>(2019.03.29)

ある「数学的対象」の「内的性質」が見渡せるかどうか と、ある目の前の図形の(内的)性質が見渡せるかどうかという問題とは、区別する必要がある。

残念ながら、上の議論では両者の混同がある。1.では前者について語っているのに、2.では後者の話になってしまっている。

1.で参照に挙げたRFMⅠ 76は、後者を扱ったものであった。そこにも明晰さが欠けていた。

ただし、双方の問題は関連している。3.での、ウィトゲンシュタインの指摘は、その関連に向けられてる。