1.
不適切な場面に<原因ー結果(効果)>の観念を持ち込むこと、さらに因果的説明を与えることを、ウィトゲンシュタインは哲学的混乱の原因の一つとして批判した。それについては、当ブログで様々な例により確認した。
次のような例をもう一度見ておこう。
a. 情動(情緒)と、その対象
情緒のうちで、[何物かに] 向けられたものと向けられていないものとを区別することができよう。あるものに対する恐怖、あるものについての喜び。このあるものは情緒の対象であって、情緒の原因ではない。(RPPⅡ148, 野家啓一訳)楽しさは感覚なのかどうかと問う人は、おそらく理由と原因とを区別していないのだろう。なぜなら、もしそれを区別していたとしたら、あるものを楽しむとは、そのものが原因となってわれわれのうちにある感覚を惹き起こすことではない、ということに想到していたはずである。(RPPⅠ800, 佐藤徹郎訳、cf. Z507)
b. 表情と顔
表情は、私や誰かに対する、顔の効果ではない。 何か別のものが同じ効果を与えたからと言って、それがこの顔の表情を持っている、と言うことはできないだろう。 (LCA, p30)
c. 美学的印象と芸術作品
「芸術作品の効果」ー感じ、イメージ等ーについて語ろうとする傾向が存在する。「なぜ君はこのメヌエットをきくのか」と問うのは自然だが、それに対し、「これやあれの効果を得るために」と答える傾向が存在する。では、このメヌエットそのものは重要ではないのか?これを聴くということ—他のものでも同じだというのか?(LCA,p29)
d. 言葉と、その意味(芸術作品の場合に類比されていることに注意)
あるメヌエットを演奏して、豊かな成果を得る場合があり、別の時に同じメヌエットを演奏しても、何も得るもののない場合がある。だからといって、得られるものがそのメヌエットと無関係というわけではない。意味や考えが言葉の随伴物に過ぎず、言葉は重要でないと考える誤りと比較せよ。<命題の意味sense>は<芸術の鑑賞an appreciation of art>の問題にきわめて類似している。文は、ある目的の為のものであって、その効果を持つものが、なんであれその文の意味である、という観念。(LCA,p29) cf. PI498
e. 志向的な心的状態と、その対象
「桃を食べたい」と思っていた人が、代わりにリンゴを与えられて食べて満足し、食欲が鎮まったとしても、その人はリンゴを欲していたわけではない。
予想が満たされることは、第三のことが生じる、という点に存するのではない。即ち、まさに「予想が満たされること」と記述する以外にも記述可能なこと、例えば充足の感情、喜びの感情、その他諸々の感情、が生じる、という点に存するのではない。(PR25, 奥雅博訳 cf. PGⅠ108 )
f. 行為と、その終点=目標end
行為の終点=目標は、必ずしも、それが現実に生み出す結果ではない。
逆に言えば、行為は必ずしもその結果によって定義されるものではない。(imperfective paradox)
(もしも「計算」という行為の概念が、正しい結果が得られることのみによって定義されるなら、「計算に関する問い」や「計算間違い」が存在しなくなる、というウィトゲンシュタイン中期数学論のパラドックスもこれに関連する。cf.“論理的に不可能なものの記述”)
上の例からわかるように、ウィトゲンシュタインの批判は広い範囲に及んでいる。
反面、彼は「美学的説明」のような、因果的説明とは区別される説明の存在を強調した。それらをまとめて便宜的に「非因果的説明」と呼んでおこう。
こう言えるだろう:「美学的説明は、因果的説明ではない。」(LCA,p18)
ひとが美学的印象に悩まされる時に探し求める種類の説明は、因果的説明ではない。すなわち、人々の反応に関して、経験的に確証されたり、統計によって確証されたりする類の説明ではない。(LCA,p21)
a. ~f. の例それぞれに、情動の対象について述べる言明、顔の表情の描出、美学的説明、ことばの意味の説明、心理的状態と志向対象に関する言明、行為の目的に関する説明、といった種々の「説明」を対応させることができよう。
それらの説明によって表現されるものを、ここで(便宜的に)「非因果的なつながり(関連)」と呼んでおく。
彼の行ったことは、われわれの言語ゲームにおける、「非因果的関連」の表現とその使用に注目すること、であった。
(「便宜的に」である理由は、それら様々な「つながり」や「説明」すべてに、何か共通したものが存在するとは限らないからである。)
”説明のアスペクトに向かって” で述べたように、「説明」とは「関連づけ」、「つながりの提示」である、と言えよう。
つまり、「非因果的説明」とは、「非因果的な関連づけ」を行うことである。
問題は、ここでの「非因果的つながり」の多様性である。
上の例に加えて、さまざまな「非因果的なつながり」が表現の対象となることに思いを巡らせたい。
「‘2+3’ と ‘5’の同等性」や「矛盾命題から、任意の命題が帰結する」のような、数学的つながりや論理的なつながり。これら、「無時間的なつながり」と呼びたくなるものも、ここでの「非因果的つながり」に入れよう。
さらに、以前取り上げた、「背景の説明」の一部も「非因果的説明」に含めたい。
“「説明」の周辺(39)” では、それが表す関連を「同時的という関係性」と呼んだ。
山ノ上旅館ニ泊ッテイタ。夜中に地震ガアッテ、皆トビ起キタ。(寺村秀夫、『日本語のシンタクスと意味Ⅱ』p144)
※もちろん、「前景」の出来事と「背景」の出来事が因果関係にある場合も多い。
さらに、つぎのような「説明」にも注意しよう。
Jean se mit en route dans sa vieille Fiat. Il attrapa une contravention. Il roulait pourtant avec plaisir.(ジャンは古いフィアットに乗り出発した。彼は交通違反の罰則を受けた。気持ちよく運転していたのだけれども。)
“「関連づけ」と半過去” では、この例文を、半過去の使用条件を解明するための例として取り上げたが、ここでの「気持ちよく運転していたのだけれども」も、「背景の説明」と呼ぶことができよう。
注意したいのは、それが「交通違反の罰則を受けた」ことの理由を述べるものではなく、それとは対照的な、背後の状況を、いわば「逆接」的に、比較対照して見せるものであることである。
ここでは、敢えて広く、これらのような例をも「非因果的説明」に含めておきたい。それらを「説明」と呼ぶ根拠については、それぞれの記事を参照のこと。
ここでimperfective aspect (「泊ッテイタ」、‘roulait’)が表れることが、次の問題につながる。
2.
これらの「非因果的なつながり」が、特徴的なアスペクト、テンスを用いて説明され、しかもそのアスペクト、テンスは、事象そのものの時間的様態からはズレているように見える、という例が、しばしば注意されてきた。ここでは、細かい議論に立ち入らず、簡潔に見ておこう。
①上で見たような「背景の説明」が、imperfective aspect を用いてなされる場合
上の例文で言えば、「山ノ上旅館に泊まる」行為の描出は、どのような叙述の流れ(コンテクスト)において述べられるかによって、perfective(泊マッタ)がふさわしいか、imperfective(泊マッテイタ)がふさわしいかが決まってくるのであって、事象そのものの性質によって描出文のアスペクトが一義的に決定されるのではない。
②英語における<行為解説の進行形>
When you say I deserve a rest, you are saying that my life is over.(Steinbeck)
If you set this bird free, you're doing an act of kindness.
上のような例文に現れる進行形は、'identity of two acts' を表す進行形、とも呼ばれる(O. Jespersen)。
これを「非因果的つながり」の表現と呼ぶのは、まさに2つの行為は同一であって、一方が他方を引き起こす関係にはないからである。
しかし、同一性を表すのならば、when節、if節の動詞がperfectiveであるのに対して、主節の動詞がimperfective(progressive)であるのは何故だろうか?
( "行為と状態7”、”説明とimperfective aspect")
③英語の未来進行形が、「当然の未来 (FUTURE-AS-A-MATTER-OF-COURSE)」(G.Leech)を表す場合
しかしながら、will + 進行形には特異な用法が存在する:その用法は、一つの全体として捉えられた単一の出来事に対して適用される(つまり、通常 進行形に結びつけられる 特徴的な「枠づけ効果」や非完結性は備わっていない。)この用法は独立して取り上げるに値する。なぜなら、それを、 will の未来の意味と進行形の「進行中」の意味とが結びついたもの、と見なすことは困難であるからだ。
次はその例である
I'll be writing to you soon./ When will you be moving to your house?/ Next week we'll be studying Byron's narrative poems./ The parties will be meeting for final negotiations on July 25th.
これらの動詞構文の意味は、当然の未来FUTURE-AS-A-MATTER-OF-COURSE という言葉で、大まかに要約できるだろう。それは、予言される出来事が、誰かのの意思や意図に左右されることなく起きることであるように表すのである。
(Geoffrey N. Leech, Meaning and the English Verb, §107)
異論はあるだろうが、これも「非因果的つながり」の表現として捉えてみたい。なぜなら、これらの文の中の、主体と行為との関係は、単に事実的なものではなく、「あるべきもの(当然あるいは必然的なもの)」であるだろうから。
そう考えると、次の例との関連が浮かび上がる。
④起こるはずである出来事、起こる予定である出来事が(未来時制ではなく)半過去で表される場合。
<叙想的テンス>(寺村秀夫)の、フランス語における類似例として、次のような例を見た。(“叙想的テンス、叙想的アスペクト(1)”)
[空港で飛行機を待ちながら]
Ton avion partait à 16h30.
(君が乗る飛行機は16時半発だったね。)
[ラジオでヴァイオリニストの急死を報じ、続けて]
Demain,c'était son concert d'adieu à Copenhague.
(明日コペンハーゲンで彼のさよならコンサートが開かれることになっていました。)
日本語にも、「タ」に関して<叙想的テンス>の現象が認められた(ムードの’タ’)。上の訳文の中にそれが表れている(下線部)。つまり、双方の言語で類似した用法が存在するのだ。
③④の場合を「非因果的つながり」の表現とするのは強引に見えるかもしれない。
では、次はどうか。ここでも「必然的なつながり」が問題となっている。
⑤「無時間的命題」が過去時制で表される場合。
a.(確認のために、側の人に訊ねて)「1009は素数だったね?」
b.(誤りを指摘され、再度計算してみて)「1009が素数だったとは!」
これも「ムードの’タ’」の例であり、金水敏は、a. 等を<回想>、b. 等を<関連づけ>の用法に分類している。(金水敏「テンスと情報」)
④⑤の用法にテンスのみならずアスペクトも関わっていることについては、”叙想的テンスと状態性”で触れた。
これらの用法は、外国語学習の際の躓きにもなるが、学問的にも説明を要する現象として扱われたりする。われわれのテンス、アスペクトに関する通念との齟齬が見られるだけでなく、特定の言語を越えて類似した現象が認められ、なおそこにはそれぞれの言語による程度の差も存在するからであろう。
反面、われわれはこれらの用法をごく自然に使いこなしているという事実がある。
「美学的説明」に焦点を当てたのは、この問題と、ウィトゲンシュタインのアスペクト知覚論、双方へのアプローチ(の一つ)を開くためでもあった。
それについては次回以降に。