「説明」の周辺(37):シンボルの置き換え

1.

(前回を承けて)

「表情」ないし「美学的印象」の因果的説明と、意味の因果的説明との間には似た構図がある。

まず、対象(あるいは言葉)そのものと、その「表情」や「意味」とが区別される、という前提。そして「表情」や「意味」の存在的性格は、あいまいであるが、非物質的なものとされる。

そして、どちらの場合も、(対象に接する)主体の「心的なもの」に対する効果によって、「表情」や「意味」を定義・説明しようとする。つまり、「心的なもの」という、主体側に属する「レセプター」を持ち出し、それに対する因果的過程によって、非物質的な「表情」や「意味」の成立を説明しようとするのだ。

 

しかし、まず意味の説明の場合を考えてみれば、(以前触れたように)主体の「心」が対象そのものではない限り、「志向性の謎」は解消できない。「アレクサンドロス3世」という言葉の意味が、私に属する「心的なもの」にすぎないのなら、この意味とアレクサンドロス3世自身との結びつき、その強さはどう説明されるのか。

あるシンボル的現象が心のなかでおこなわれ、紙の上で他人に見えるようにおこなわれるものでないということは、われわれの考察にとってなにも本質的なことでありえない。人はいつも、シンボル的過程を何か特別の心理的過程によって説明したくなる誘惑におちいってきた。あたかも心なるものは、記号よりも、「この件に関しはるかに多くをなしうる」かのごとくに。( PGⅠ59、山本訳)

 「心的なもの」という「非物質的存在」を持ち出すことは、事態を根本的に変えるものではなかったのだ。

 

そこで、「像」の概念が、それに対する解答をもたらすように見えるかもしれない。

(次の文の中の「意図 Intention」は、もちろん「志向性」とも翻訳可能である。)

意図Intention の過程を記述しようとして、まずもって私が感ずることといえば、意図は、意図されるもののきわめて正確な像をもっている場合こそ、もっとも容易にその務めをはたしうるだろう、ということである。( PG Ⅰ 100、山本信訳)

そこで、因果的に形成される「心的なもの」が対象の「像」である場合に、志向的関係が成り立つのだ、と考えたくなる。

しかし、

しかし、次に思いいたるのは、像がどんなものであろうと、それはさまざまの解釈をゆるすのだから、像の正確さということも十分ではないのであり、その像もやはりふたたび孤立してそこにあるだけだ、ということである。像をそれだけとりあげて目にするや否や、それはたちまち死んだものになり、前にはそれに生命をふきこんでいた何かが取り去られてしまうかのようである。( PGⅠ100、 山本訳 cf. PI 432)

こうして、われわれは再び挫折する。「像」には、何の像であるかについて、決定不能性がつきまとうように見える。

※関連する話題として、後期ウィトゲンシュタインにおける<像 Bild>と<表象 Vorstellung>の概念的差異という重要な論点があるが、今立ち入る余裕はない。cf. PI 300-301,  RPPⅡ63, 112, 124, Z621,638,642,655

 

ただし、われわれが「心的なもの」や「像」の概念を持ち出したくなる背後には、意識されない重要な洞察が隠されている。

心的なものの記述は、それ自体がふたたびシンボルとして使われざるをえない。

この間の事情こそ、記号はその説明によって置きかえられうるということが、記号の説明なるものの本質にとって重要な洞察であるゆえんなのである。そのことのゆえにこの説明の概念が、因果的説明の概念と対立したものになる。(PGⅠ59、山本訳)

ここで「記号の説明」と呼ばれている、「意味の説明」とは、シンボルによるシンボルの置き換えであり、そうであるがゆえに、因果的説明とは対立したものとなるのだ。

われわれが「心的なもの」や「像」の概念をわざわざ持ち出すのは、それにシンボルの特性を持たせたいから、なのである。

君が像を願望(例えばこの机がもっと高くあってほしいという願望)とよぶとき、君がしていることは、その像とわれわれの言語の一表現とをくらべあわすということにほかならない。そしてその言語表現に像が対応するということは、その像が、われわれの言語に翻訳可能な体系の一部である場合のほか、なりたちはしない。(PGⅠ102、山本訳)

 

意味の説明は、最も単純な形では、「・・・は○○○だ」という形式で表現される。これを「メタファー」形式の説明と呼ぼう。

 この「置き換え」は「シンボルによるシンボルの置き換え」であるゆえに、「翻訳」と呼ぶこともできよう。

 

2.

 なぜ、シンボルを別のシンボルによって置き換えるのか?

その2つのシンボルが似た意味を持っているから、(場合によっては)同一の意味を持っているから、だ。

 

ここで、「意味を持つもの」としての「シンボル」を、「表情を持つもの」としての「美学的対象」に類比してみよう。(対象の「表情」は、敢えて極度に拡張した意味で捉える。)

「美学的説明」として、「芸術は、爆発だ」「あの女性は、氷だ」等の例を考える。つまり、「・・・は○○○だ」というメタファー形式のものを取り上げる。

置き換えの理由「似た意味を持っているから」は、「似た表情を持っているから」に類比できよう。これによって、「意味の説明」を「美学的説明」に類比してみる。

その時、両者に共通するものは、この「置き換え」のメカニズムである。

 

2つの「表情」や「意味」が、「類似している」あるいは「同一である」ことは、一般には、因果的な出来事(過程 Vorgang, process)ではない。

すなわち、類似性、同一性は、非因果的なつながりである。

アレクサンドロス3世は、自身の何らかの変化によって「イスカンダル」になったわけではない。

 「このシンフォニーの主題は、まるで天が墜ちてくるかのようだ」ー「このシンフォニーの主題」と「天が墜ちる」こととの間に因果的関係があるわけではない。

 

「美学的説明」は、非因果的つながりを illustrate(「並べて示す」)する。

ウィトゲンシュタインは、それを「特殊な種類の比較 peculiar kind of comparisons」(LCA, p20)と呼ぶ。

 

ところで、ウィトゲンシュタインは、数学的命題の表す関係を、同一性に類比していた。

すなわち、数学的関係の洞察は同一性の洞察と似かよった役割を演ずる。それは複雑な種類の同一性だと、ほとんど言ってもよいくらいである。(RFM Ⅳ 36 中村秀吉・藤田晋吾訳)

ここから、数学的命題を「美学的説明」に類比することが考えられる。

また、「美学的説明」と数学的証明とを、「新たな経験による検証なしの合意」という観点から比較できることは既に記した(「説明」の周辺(14))。

 

これらのアナロジーは、ひどく乱暴で、学問的な営みとしてはふさわしくないように見える。しかし、アカデミックに哲学するためではなく、「ウィトゲンシュタインを読む」ために、むしろ積極的に試みる、というのが当ブログの一貫した姿勢である。

 

3.

しかし、2つの問題がある。

① 「美学的説明」は、このような「メタファー」形式のものに限られるのか?

② 「美学的説明」における「非因果的つながり」は、「類似性」「同一性」に限られるのか?