1.
「一瞥性」について重要なのは、「数学の基礎」に関する考察の中で、それが問題として浮上していることである。「数学の基礎の探求」(cf. PPF372)、それを文字通り「基礎的」な、非常にプリミティブな数学的行為を対象に行うことで、「一瞥性」の問題が浮かび上がっている。
ウィトゲンシュタインは、5本の短い棒線の図(Hと名付ける)と、ペンタグラム(五芒星図、Dと名付ける)の角、それぞれを線によって結び、それらが同数であることを示す行為 を例にとる。その結果HとDとが5本の線で結ばれた図は、証明として役立つ(RFMⅠ26-7)。すなわち、HがDのもつ角と同数の棒からなること、の証明として。
それでは、平行に並んだ五本の棒線の図形と五角星のかたちに名前を付けることを提案した意味は、何だったのか。それらが名前をもつことによって、何が起こったのか。それによって、これら図形の用法にかんして何かが示唆されるのだ。つまり、われわれは、一瞥のもとにauf einem Blick、それらをこれこれのものとして認識し、そのために棒線や角の数を数えることをしない。それらは、われわれにとって、ナイフやフォーク、文字や数字のような形態Gestalttypenなのだ。
それゆえ私は、(例えば)「Hを描け」という命令を受ければ、ただちにそのかたちを再生unmittelbar wiedergebenできる。―さて、証明は私にその二つのかたちを対応させる方法を教えてくれる。(証明において対応づけられるのは、たんに個々の図形なのではなく、かたち自体die Formen selbstである、といいたい。だがその意味するのは、それらのかたちが私によく印象づけられるeinprägeこと、範例Paradigmenとして印象づけられることにすぎない。)(RFMⅠ41,中村秀吉、藤田晋吾訳 )
この文章には、さまざまな現象や概念と それら相互の関連が集約されて現れている。
一瞥性、名づけ、類的形態Gestalttyp、範例Paradigma、印象づけるeinprägen、直接的再生unmittelbar wiedergeben。
「名づけ」以下の概念は、一瞥性に関連している。
例えば、名前は、名づけられた対象の、一瞥での把握と想起に役立つ。ここで言う「想起」とは「直接的再生」であり、一挙に行われる。
そして、「直接的再生」は、われわれの生活において、一瞥性と表裏をなすように、根源的な現象として存在する。
(類的形態の「直接的再生」は、前々回の引用の中で「すべての哲学にとって法外に重要」と呼ばれていた「表情の記憶」に類似した現象である。)
そして、全体の行為が、「棒線や角の数を一つ一つ数えないで、同数性を判断する」という「技術」に結びついていることに注意。(「技術」も、当ブログのキーワードの一つである。「技術」と「同一化」の問題。)
2.
では、なぜ「数学の基礎」の考察において、「一瞥性」が大きな問題となるのか?
「数学の基礎」にふさわしい、その種のプリミティブな言語ゲームにおいては、すべての対象が一瞥によって捉えられるようなものだからか?
そして、「一瞥性」への注目は、数学という営みの原初の様態を再確認することに役立っている、と?
しかし逆に、われわれの数学の大きな部分が「一瞥性」ではとらえられないような対象にかかわっている、ということが示されてもいる。
日常の単純な四則計算からして、一瞥できないような大きな桁数の対象に関わっている。
にもかかわらず数学の持つ「無謬性」「一意性」の観念は、一瞥できる対象に関する数学的認識の「無謬性」をモデルにしている、と ウィトゲンシュタインは考えていたようだ。
「一瞥性」が問題となるのは、そのようなズレが引き起こす問題を正しく認識する必要があるからだ。
もうひとつポイントが、大変に重要なenoumously impotantポイントがある。今は、明確にし切れないが。
ある仕方で数えると、ある結果に至り、別の仕方で数えると別の結果になる、というようなことは、一見ありそうにないと思われるだろう。「きっと、どこかで間違ったに違いない。」と。
掛け算、足し算、というような計算に関して、そのような計算を考える際には、われわれは特定の種類の例を範例とする傾向にある。
数えることに関してまちがいが起こったか否かをわれわれが知らないという事態を想像するのが難しい理由のひとつとして、われわれが計算の範例を2+2=4のような例にとる、という事実がある。つまり、われわれが一瞥でat a glance見て取れるような例をわれわれは考えるからである。そのような例では視覚的まとまりvisual groupによる規準が存在する。しかし、もっと大きな数による例では、そのようなものは存在しない。(・・・)
われわれは、指を使う計算や、特定の相貌a particular faceを持った数による計算を例とする。そのような相貌は、10,000という数には存在しないのだ。
(WLFM p292-293)
ここで特定の数(おそらく、一桁を少し超える程度までの自然数が典型)が特定の顔faceを持つ、と言われていることが眼を引く。
「一瞥性」によって、アスペクト知覚、表情の問題、数学の基礎、といった大テーマが結びつけられる。
そこで、4つの重要な問いが現れる。
①一瞥可能な対象に関して、我々の算術、数学とは対立するような言語ゲームは可能か。それが可能な「生活形式」はどのようなものか。
②数学の「一意性」「無謬性」が、一瞥可能な対象に関する数学をモデルに考えられていることの影響は何か。
③必ずしも視覚等の感覚の一瞥性に結びついていないにもかかわらず、「そうでない」事態が考え難い(無意味である)命題は多数存在する。
例えば、大きな数同士の計算や「円周率=3.1415...」はその例だろう。
言葉の定義に関わる命題もこの類に数えることができる。(例:「独身者には妻がいない。」)
ウィトゲンシュタインが文法的命題として挙げる中にも、そのような種類の命題がある。(例:「命令は、その遵守を命じている」PI 458)
彼の言葉で言えば、それらは一般的に「内的性質」や「内的関係」を表している。
これらを一つにまとめることが適切かどうかという問題はさておくとして、
そのような命題の「無謬性」の成り立ちはどのようなものであるか。
④感覚の一瞥性に結びついていず、「そうでない」事態が想像可能である(あるいは有意味である)にもかかわらず、「そうである」ことが確実な命題も存在する。
いわゆるムーア型命題と呼ばれるものがその例である。
そう呼ばれるものを一つにまとめることが適当かどうかはさておくとして、
その「無謬性」は何に支えられているのか。
もちろん、これらは通りすがりに答えられるような問いではない。