行為と状態(5):限定性と非有界性、感覚体験への類比

1.

進行形が表す意味を特徴付けるものとして、英語学でよく挙げられるのは次の3つである。

現在進行形の意味ははこれらに例示されている:それは、一時的な状況situation、現在という時点を期間のうちに含み、過去および未来の方向に、限られた範囲で延長しているような状況、を表す。このように使用された現在進行形を単純現在形から区別するために、その意味が持つ、3つの区別された側面を強調すべきである。

1.進行形は持続durationを表す(それによって、非‐持続的な「出来事の現在形」から区別される)。

2.進行形は限定された持続limited durationを表す(これにより、「状態の現在形」から区別される)。

3.進行形は その出来事が必ずしも完了しないthe happening need not be completeことを表す(それゆえ、ここでも「出来事の現在形」とは区別される)。

(Geoffrey Leech, Meaning and the English Verb,3rd ed.§28)

 一応納得はしても、この3つの規定にはどこかしっくり来ない感じがする。

その感じを少し掘り下げると次のような事情がみえてくる。

前々回、前回と、期間を表す副詞句と進行形の共起条件を見てゆくうちに理解されたのは、進行形によって表示される事象は非‐有界的unboundedに表されなければならない、ということであった。

そこに、上記2.の規定を併せれば、進行形は限定されたlimited持続を非‐有界的unboundedに表す、ということになる。

これは、ほとんど矛盾のように響かないだろうか?

2.

limitedでありながらunbounded、という何か。この何かについて範型となるものが存在するとしたら、それは何だろう?

「それは感覚体験である。」と答えたくなる。

あらゆる感覚は、一定の時間持続し、やがて消えてゆく。つまり外側から見れば、それは有界的boundedであり、感覚体験の持続する期間は限られている(limited)。

だが、感覚体験の最中にある限り、感覚している状態と感覚しない状態の両者を同時に体験することはない。つまり、感覚体験は(その意味で)非‐有界的unboundedなのである。

また、「咳をする」のような動作に対しては、その場の感覚(聴覚、視覚)によって動作の全体を把握することが可能だが、「ログハウスを建てる」という動作の場合、その始まりから終わりまでの全体を一度に感覚することは(人間には)困難である。

つまり、「ログハウスを建てる」という動作の知覚は、通常、一度にはその部分のみを把握するのであるから、知覚された動作は完了しないことがあり得る。言い換えれば、動作の知覚の表現は、その動作の完了を必ずしも含意しない。(上記引用の3.の特徴)

3.

振り返ると、進行形の意味するところを感覚あるいは知覚との関連で説明しようとする議論が英語学には確かに存在した。

20世紀前半のJacobus van der Laanはその代表と言えるだろう。

「泣いている子供a weeping child」「その子供が泣いているthe child is weeping」において、われわれは直接的観察direct observationの結果を記録するのだ。(Van der Laan, An Enquiry on a Psychological Basis into the Use of the Progressive Form in Late Modern English, §1)

進行形はある時点または期間において 進行中going onの行為を記述する、と言われるとき、何が意味されているのか?この小論で、進行形の使用を説明するのに時間と行為というエレメントのみでは不十分であることを示そうと思う。

困難は「進行中going on」という言葉の内に潜んでいる。「進行中going on」という表現は直接的観察direct observationを含意していること、そして、直接的観察は単なる知覚よりもより多くのものを意味すること、大方においてそれらの事実は看過されがちである。われわれがあるものごとに関心を持つinterestedとき、ものごとがわれわれの注意attentionを喚起するときには常に、知覚が意識された観察conscious observationへと変貌する。(Ibid, §6)

進行形の使用を議論する際、2つのエレメントを考慮しなければならない。

 1.進行中の行為の性質

 2.観察者の心理

最初のエレメントについては広く文法学者によって詳述されてきたものの、第二の主観的なsubjectiveエレメントについてはほとんど認知されることがなかった。(Ibid, §7)

 重要なのは、Van der Laanが単なる感覚や知覚ではなく、注意関心というエレメントを重視していることである。

その点で、進行形を「集注叙述」の語形とした細江逸記の考え(『動詞時制の研究』)と共通する面を持つ。

・・・進行形は、行為、出来事あるいは状態が、注意を喚起し、一定の間観察される場合にのみ使用される。進行形はそれと同時に、観察者の心中に呼び覚まされた感情を暗示することもある。(Ibid, §14) 

・・・注意または関心が、進行形の使用に対する必要な条件である。(Ibid, §16)

観察者の存在を通じて、感情のニュアンスが進行形に加わる、と主張されている。

 4.

ただし、注意せねばならない。進行形の使用は、必ずしも、描出された事柄が話者あるいは他の誰かによって感覚体験されたことを事実として表示しているわけではない

(その意味で、Van der Laanが「直接的観察」という表現を用いて述べていることはミスリーディングと言わざるをえない。)

それは次のような例文を考えてみれば明らかだろう。(英文の代わりに日本語の進行相の文で失礼させていただくが)

 

「まだ生命の存在しない44億年前の地球に向かって、ある微惑星が接近していた。」

 

したがって、進行形の表現は、いわゆるエヴィデンシャルではない。

進行形を用いた文章は、「あたかも観察されているかのように」語るのであって、

「観察されたものとして」語るのではないのだ。