「説明」の周辺(36):「因果的説明」批判の系譜

 1.

 ウィトゲンシュタインの云う、「美学的説明」とは何か?

すでにここまで折に触れて、その特質について語ってきた。

例えば、

比較すること、並べて示す(見せる)ことが「美学的説明」のポイントである。(“「説明」の周辺(7),(14)”) 

・「美学的説明」は「因果的説明」と対比される。(“「説明」の周辺(9),(14)”)

・「美学的説明」は、現実の因果的出来事による検証なしに、説明を受ける者との間に合意を形成しようとする。(“「説明」の周辺(9),(14)”)

・「美学的説明」は、比喩を与えることに似る。(“「説明」の周辺(14)”)

 

もう少し、補足してみよう。

ここに、2つの説明に登場するもの:<喩えられるもの>、<喩えとなるもの> がある。「美学的説明」は、この2つを同時的に結びつける。いわば、「並べて示す」。

そして、結びつきを、(2つのものが登場する)新たな出来事やその統計的事実によって確かめることなしに、説明を受ける者に同意させる。

 

 2.

しかし、「美学的説明」と呼ばれるものは、上で言われているようなものに限られるべきだろうか?

 

ウィトゲンシュタインが『美学講義他』で「美学」の議論の対象に含めたものが、非常に広い範囲にわたることは以前確認した(“「説明」の周辺(11)”)。

当然、それらに対する説明も、因果的なものを含めて、様々な種類のものが含まれるだろう。それらがすべて「美学的説明」と呼ばれるべきかどうかが問題であるにしても。

「美学的対象」の例として、美術、音楽作品や文芸作品を考えよう。

次のような叙述は、それぞれ、作品の理解に役立つだろう。

「この絵は、構図の決定にカメラ・オブスクラを使用して描かれた。」

「彼は、その歌を、LSDを摂取した時に書いた。」

これらは、作品が生まれる因果的過程について述べている、とみなせよう。しかし、それを通じて、作品そのものについても、さまざまな見方を教えてくれよう。

また、次のような例も考えられる。

「彼女の夫も有名な作家であり、それぞれの作品の多くは、一緒に生活する中で書かれたものである。」

夫婦生活がそれぞれの作品の生成に決定的影響を与えたかどうかは不明であるにしても、生み出された背景について教え、作品の理解にヒントを与えてくれるだろう。

 作品についてのこのような叙述は、「美学的説明」と呼ぶかどうかはともかく、単なる「因果的説明」ではないと言いたい気がする。

 

しかし、そもそも一般的に通用しているわけではない「美学的説明」という言葉の意味内容に今こだわるよりも、ウィトゲンシュタインがどういう狙いでこの言葉を使っているかに注目して進んでみよう。

 

 3.

ウィトゲンシュタインにおいて、「美学的説明」は 、「因果的説明」に対立する「非因果的説明」に属する。ただし、すべての「非因果的説明」が「美学的説明」と呼ばれるわけではない。(のちにその重要な例を見ることになるだろう。)

 

「美学的説明」が「因果的説明」に対立させられて論じられる場合、「因果的説明」の多くは、「美学的判断」や「美学的印象」(すなわち、「表情」や「感じ」)の成立に関する生理学的説明を例に取られている。

(それに対して、2.に挙げた説明の例は、いずれも作品の成立過程に関するものであった。)

こう言えるだろう:「美学的説明は、因果的説明ではない。」(LCA,p18)

ひとが美学的印象に悩まされる時に探し求める種類の説明は、因果的説明ではない。すなわち、人々の反応に関して、経験的に確証されたり、統計によって確証されたりする類の説明ではない。(LCA,p21)

われわれの判断がすべて脳から生ずることが発見されたとしてみよう。脳における、特定の種類のメカニズムが発見され、一般的法則にもたらされた、等々。この音の連なりがこの特定の種類の反応を生み出し、微笑ませ、「おお、なんと素晴らしい」と言わせる、といったことが示される。(英語に対するメカニズム、等)これがなされたとすれば、特定の人物について、その人が何を好み、何を嫌うか、予言することが可能となるだろう。そういったことを計算できよう。しかし、問題は、これが美学的印象に悩まされた時にわれわれが求める類の説明なのか、ということだ。例えば「どうしてこれらの小節がこの特別な印象を与えるのだ?」と考えさせられた時に。われわれが求めるのは、明らかにそれではない、つまり計算や反応の記述ではない。(LCA,p20)

 

アスペクト視の現象の生理学的説明に対しても、似たような批判的考察がなされていることに注意しておこう。cf. PPF236, RPPⅠ1012, 1038, 1063 

 

「表情」を広い意味に取れば、次の言葉を、彼が言いたいことの直截的表現と見なすことができるだろう。つまり、「表情」を「美学的印象」の隠喩としても受けとるならば。

表情は、私や誰かに対する、顔の効果ではない。 何か別のものが同じ効果を与えたからと言って、それがこの顔の表情を持っている、と言うことはできないだろう。 (LCA, p30)

実際、芸術作品の印象についても、次のように言われている。

「芸術作品の効果」ー感じ、イメージ等ーについて語ろうとする傾向が存在する。「なぜ君はこのメヌエットをきくのか」と問うのは自然だが、それに対し、「これやあれの効果を得るために」と答える傾向が存在する。では、このメヌエットそのものは重要ではないのか?これを聴くということ—他のものでも同じだというのか?
 
あるメヌエットを演奏して、豊かな成果を得る場合があり、別の時に同じメヌエットを演奏しても、何も得るもののない場合がある。だからといって、得られるものがそのメヌエットと無関係というわけではない。意味や考えが言葉の随伴物に過ぎず、言葉は重要でないと考える誤りと比較せよ。<命題の意味sense>は<芸術の鑑賞an appreciation of art>の問題にきわめて類似している。文は、ある目的の為のものであって、その効果を持つものが、なんであれその文の意味である、という観念。(LCA,p29)

ここで、芸術作品の印象と 文の意味との類比が導入されていることに注意しよう。しかも、その類比の緊密さが強調されている。

別の場所でもウィトゲンシュタインは、言葉の意味を、その言葉の効果として見ることが不適切であることに注意を促している(例えば『探究Ⅰ』498)。

 

さらに視野を広げれば、志向的態度を因果的に説明することに対する批判を、この批判の系譜の上流に位置づけることができよう。それは『哲学的考察』の時期に既に明確になっている。(ラッセルの『心の分析』The Analysis of Mind, 1921 に対する批判であると言われる。)

予想が満たされることは、第三のことが生じる、という点に存するのではない。即ち、まさに「予想が満たされること」と記述する以外にも記述可能なこと、例えば充足の感情、喜びの感情、その他諸々の感情、が生じる、という点に存するのではない。
というのも、pが実情となろう、という予想は、この予想が満たされることの予想、と同じものでなければならないからである。(PR25, 奥雅博訳 cf. PGⅠ108 )

 

 3.

 「美学的印象」をめぐって、その成立を因果的に説明するもの、例えば生理学的な説明、が存在する。ウィトゲンシュタインの云う「美学的説明」は、それらに対立する、非因果的説明である。

さて、上で彼が因果的説明を不適切な場で持ち出すことへの批判をさまざまな場面で繰り返していたことを確認した。「意味の説明」の場面はその一つであった。

(「理由と原因の区別」についてもまた、再考される必要があるが、ここでは立ち入らない。)

先に挙げた、「美学的説明」の「比較する」「並べて示す」という特質を、さらに掘り下げるために、「意味の説明」との類比に焦点を当てたい。(続く)