3つの平面

1.

当ブログの中で、進行相 の問題は、主に 3つの平面 / 流れ において現れてきた。

次のステップに進む前に、それを簡単に確認しておく。

 

Ⅰ.行為と目的、行為と規範

行為には、本来的な終点=目的endを有し、開始から終点までの到達に幾らかの期間を必要とする類のものがある(ヴェンドラーの分類におけるaccomplishment verbで表されるような行為)。

その行為に本来的な終点=目的は、その行為であるための本来的な規準と呼ぶことができよう。

例えば、「イカを釣る」行為の場合、本来的な「終点(目的)」は、竿でイカを釣り上げることである。海中から引き上げる途中で逃げられたのでは「イカを釣った」とは言えない。また、釣り上げた獲物がタコであった場合も同様に、言えない。つまり、この「終点(目的)」は、「イカを釣る(釣った)」という概念を適用するための「本来的な規準」になっている。

 

しかし、その一方で、われわれは「本来的な終点」に到達していない状況下でも「今、イカを釣っている」「その時、イカを釣っていた」と語る。さらに、結局その終点に到達できなかった場合でも、その「今、イカを釣っている」「その時、イカを釣っていた」という発言は(多くの場合に)妥当なものとして受け入れられる(imperfective paradox)。

すると、われわれは進行相を用いて、本来的な規準を満たさない状況にある行為について、その行為の名で語るという行いをしているのである。

 

このような、「進行相を用いて行為について述べる」とは一体どのような行いであるのか?というのが、第一の問いであった。

例えば、「彼は今、オムレツを作っている。」は、「今目の前にあるのは、縦5cm、横7cm の長方形である。」のような記述に、どのような点で類似しており、どのような点で相違しているのか?

※上に類似した構図は、「できる」「理解している」等の状態概念をめぐっても生じる。(”適用が正当化する””規則遵守と関連する行為””「できる」という状態”

それに関連して、進行相で表された行為と「 状態」との類比(類似と相違)という問題が提起された。(”行為と状態(2)”以下を参照)

さらに、「本来的な規準を欠いた状況においてこそ生じる、言表の有用性」にも注意を喚起しておいた。(”「説明」の周辺(31), (32)”)

 

Ⅱ.非因果的説明

ウィトゲンシュタインは、様々な講義の中で、因果的説明とは区別される様々な説明の存在と、その特徴について語っていた。

「美学的説明」等を含むそれらを、便宜的に一まとめにして「非因果的説明」と呼んでおいた。(”「説明」の周辺(42)”

 

当ブログが注目したのは、「非因果的説明」に登場する事象が、事象自体の性格から予想されるものとは異なったアスペクトやテンスで述べられることがしばしばある、という事実であった。

英語の<行為解説の進行形>はその一例であり、事象が進行相で述べられる。

その他にも、<予定>に関わる陳述に未来進行形や半過去が使用される例があり、そこでも進行相が出現する。

”「説明」の周辺(42)”を参照)

 

このような、「非因果的説明」における進行相の使用をどう捉えるか?というのが、第二の問いである。

 

Ⅲ.体験の表現

個別の言語学において、英語の進行形やフランス語の半過去の本質を、話し手の認知的な体験(知覚、注意)との関りに見ようとする流れが存在する。(”行為と状態(5)(6)”

 

確かに、英語における進行形とperfective aspect との使い分けを、話し手の体験の違いで説明できそうな例は少なくない。

(a) According to the map, this road winds through the mountains.

「地図によれば、この道は山を取り巻いて走っている。」

(b) The way this road is winding through the mountains, we'll never get there on time.

「山を取り巻いて走っているこの道の様子からして、われわれは時間通りにはたどり着けない。」

(例文はRonald W. Langacker, Cognitive Grammar, p150より。ラネカー自身の視点によるperfective/imperfectiveの分類はわれわれのものとは異なっているが、今はその問題に立ち入らない。)

(b)が発話される自然な状況は、実際に自動車でその道を走行する最中、であろう。

つまり、(a), (b)の違いは、話し手の体験の質的な違いに関係しているようにみえる。

そのような例から、進行相を体験との関りにおいて特徴づけようとする流れも生じる。

 

しかし、進行相は、あたかも体験しているかのように語る仕方であるかもしれないが、体験に関するエビデンシャルではないだろう。(エビデンシャル的側面がある、ということは否定できないとしても。)(”行為と状態(5)”

 

では、一体、進行相と話し手の体験との関係はどのようなものであるのか?というのが第三の問いである。

 

2.

以上の3つの問いが現れる平面は、それぞれ水準を異にしているように見える。

Ⅰは、記述された行為、

Ⅱは、非因果的説明に登場する事象、

Ⅲは、発言に(陰に陽に)表れた、話し手の体験、という具合に。

しかし、具体的に見てゆくと、相互の交わり、重なり合いの可能性が眼に入ってくる。

あるいは、相互の関係が問題として現れてくる。

論点を十分明確にするには程遠いが、後のためにメモしておこう。

 

まず、ⅠとⅡについて。

「私は、今、カワセミを撮っています」という発話を例にとる。

これは「行為の記述」と呼ぶべき場合もある(例えば、公園で三脚の上のカメラを覗いている時に、かかってきた友人からの電話に答える、等)。

また、「行為の説明」と呼べる場合もある(公園で三脚とカメラの横に立っている時に、警官の職務質問に答える、等)。

後者の場合、「カワセミを撮る」という目的=終点によって眼前の行為ないし状況を説明している、と言うことができよう。(しかも、同時に「行為の記述」とも呼べるだろう。)

すなわち、「行為の説明」として機能する場合、例の発話は「私は、カワセミを撮ることを目的に、ご覧の行為をしています」と言い換えられる。

 

一般に、行為とその目的とのつながりは、単に事実的な因果的関係ではない。(imperfective paradoxの存在からも、それは明らかである。)

ゆえに、「今、...している」「その時、...していた」が、目的を引き合いに出した行為の説明として機能する時、それを「非因果的説明」の一種として捉えることができる。

 

すると、「カワセミを撮っています」の進行相は、(記述or説明という)使用の違いあるいは捉え方の違いによって、行為自体のアスペクトと見なされることも、説明に登場する事象(=目的である事象)のアスペクトと見なされることもできるだろう。では、この2つのアスペクトの関係はどのようなものなのだろうか?

後に<行為解説の進行形>を取り上げる中で、この点を検討することになろう。

 

ⅡとⅢについて。

非因果的説明の例として、ウィトゲンシュタインの云う「美学的説明」を挙げた。

その中でも具体例を前にした説明に注目し(”「説明」の周辺(40)”)、この種の美学的説明を「体験の表現」として捉えることが可能であることを見た。特に「アスペクトの閃き体験の表現」との類似に注目した(”「説明」の周辺(41)”)。

 

「体験の表現」を通じての非因果的説明、と呼べるものは他にも多い。

このような構造が明瞭になるのは、知覚動詞(「見る」など)や「意味する」を用いて、「無時間的な関係・内容」を他者に示す場合である。

例えば、「わたしは、これら2つの顔に類似をみる」(PPF111)や「今、彼は、'bank’ で、銀行ではなく土手を意味している」のように(”体験による出来事化”)。

※ただし、「意味する」を、無条件に「体験」として捉えることには問題がある。このことは、下でも少し触れる。

 

これら、様々な種類の「体験の表現」を通じた非因果的説明の場合に、体験の時間的様態(例えば知覚動詞のテンス・アスペクト)と、説明される事象の時間的様態(知覚内容のテンス・アスペクト)との関係は、どのようであるのか、という問いが生じる。

「私には両者が似ているように見えている」。この文は、「両者」がどう定義されるかに応じて、時間の要素が入った仕方でも無時間的な仕方でも使用されうる。しかし、それゆえ私にはそのつど何か違うものが見えていることにもなるのか。「見えている」には常に時間の要素が入っているが、「両者が似ている」は無時間的でありうる。(LPPⅠ152、古田徹也訳)

 

関連して注意したいこと。

知覚動詞の持つアスペクト的性格は単純ではない。その点は、早くから問題にされており、例えばヴェンドラーは、'see' の使用に見られる、アスペクト的な揺らぎについて考察している。(Vendler, "Verbs and Times", p154~)

例えば英語において、see, look, watch,gaze あるいはhear, listenのような使い分けが存在していることは、われわれが知覚動詞を定まったアスペクト(例えばstative)のみで使うわけではないことを表している。(もちろん、これらの使い分けがアスペクトだけに関わるわけではないが。)

また、諸言語の間で、知覚動詞の取り得るアスペクト形式にも違いがある。

知覚動詞や「意味する」の場合、日本語では「見ている」「意味している」のようなテイル形の使用はごく普通であるが、英語では、"be seeing"や"be meaning"とは(普通は)言わない。

知覚動詞等のアスペクトを考える場合、進行形やテイル形といった形式のみを重視するのではなく、(ラネカーの分類などを参考に)もっと広い機能的な視点からアスペクトを捉える必要があるだろう。

 

ⅠとⅢについて。

「私は、今、・・・している」といった行為の説明は、また「意図の表明」に類比することができる。

すなわち、行為の目的=終点を、行為者の意図するものとして捉え、「私は、今、カワセミを撮っています」を「私は、ご覧の行為によって、カワセミの撮影を意図しています」と言い換えることができよう。(ただし、常にこのような言い換えが妥当であるわけではない。)

このような発話を「私は、この語で、・・・を意味している」といった意味の説明に類比できること、ひいては「私は、これを・・・として見る」にも比較可能であろうことは、以前に注意しておいた(”意図的行為の言語表現”)。

すると、これらの表現に、志向性を持った動詞(「意図する」「意味する」「として見る」)による、体験表現を通しての非因果的説明、という共通した特徴を見ることができよう。

だがそれは「意味する」「意図する」を「体験」として捉えるならば、である。ウィトゲンシュタインがそのような捉え方に反対したことは、以前に確認した(”体験と持続、不適切な問い”)。

しかし、このような類比がともかく可能であるとすれば、それらの表現間の類似と差異はどのようであろうか?また、類比の影響はどのようなものだろうか?。