1.
前回述べたような疑問点にも関わらず、Klein の理論を、ここまで長々と紹介した理由は何か。
当ブログが求めているのは、アスペクトやテンスに関する(唯一つの)「正しい」理論ではなく、アスペクト、テンスという言語現象に対する様々な視点である。
Klein が開いてくれる視点は、重要なものと考えるが、その理由は単一ではない。また、ここまで見てきた内容は、彼の理論の入り口の部分に過ぎない。
それでも、Klein の理論と当ブログの関心との交わりについて、ここで確認しておこう。
2.
このブログで、英語の進行形やフランス語の半過去について見てゆく内に、それらの本質を 知覚の叙述との関連や類比で説明しようとする潮流の存在とその根強さを知ることになった。
(cf. ”行為と状態(5)”、”行為と状態(6)”、”行為と状態(7)” )
そもそも従来、(語彙的アスペクトと区別される意味での)文法的アスペクト自体が、知覚、その中でも特に視覚との類比によって特徴づけられ説明されている、という事実があった。
(例えば、Comrie の定義、"viewpoint aspect"という用語 cf. ”Topic time とテンス・アスペクト(2)” )
これに対し、Klein は、そのような文法的アスペクトの定義は あまりに"metaphorical" だと批判した(Time in Language , p27)。その上で、" purely time-relational reconstruction of traditional notion of aspect "(ibid. , p108)として彼が提示したのが、 ここで紹介した理論である。
当ブログの関心は、まずは 「進行形や半過去といったimperfective aspect での叙述が、知覚や観察の叙述との類比で特徴づけられるのは本質的なことか」という問いにあった。
その解明のための方法を示唆したのが、次のような箇所である。
われわれは、imperfective aspect での記述と、「観察の記述」を似たものとして比較(つまり類比)したがる傾向を持つ。
だが、imperfective aspect での記述に類比すべき、「観察の記述」とは別様の、言語的な「モデル」(「比喩」)を考えることができないだろうか?
(”持続と認識”)
そのような「モデル」(比喩)があったとしよう。それによっては説明困難な、「観察(知覚)の記述」に特徴的な使用が、進行形や半過去での記述に確認できるなら、「観察(知覚)への類比」も本質的なものとして捉えるべきかもしれない。(ただし、上の問いにどのように答えるべきかは、なお明確ではないが。)
Klein の理論は、進行形等のみならず、基本的な文法的アスペクトについて、" viewing " という比喩から離れた説明を行うものである。それはまさに、当ブログが探していた「モデル」たり得るように見える。前回見たように、事態を単純化しすぎている恐れはあるが、一つの「視点」としてみれば、重要な示唆に富んでいる。
(※TT(Topic Time) の存在性格をどう規定するか、と言う問題は残るかもしれない。
Klein 自身は、TTを、"time for which the speaker wants to make an assertion"(ibid.,p23), "time for which such a claim is made"(ibid., p3)のように定義している。そこでは、"assertion"や"claim" といった概念が問題となるが、ここではそれらの検討に入ることはできない。)
それを紹介する中で、あるヒントが得られた。
すなわち、習慣相を含めた" imperfective aspect"に特徴的なことは、
「描出されたsituation を、より大きな全体の部分として提示する」
ことではないかと示唆された。
当ブログでは、今後、この視点をさらに別の「比喩」を使って補強したいと考えている。
その前に、ここまで取り上げなかったテンスの問題について、少し述べておきたい。