「説明」の周辺(4):3つの疑問

1.

ここまで見たように、ウィトゲンシュタインの「理由と原因」の差異に関する議論は、彼の「数学の基礎」に関する論議と 全く同じ骨格を持っている。つまり、彼の議論において、理由と原因の区別は、論理的なつながりと経験的なつながりとの区別に対応する。

 

前回取り上げた、「メカニズム」をめぐる類比とそれがもたらす混乱、および「剛体」という概念の例については、もともと『探究』の一部として出版を予定されていた『数学の基礎』Ⅰ部§119~125で扱われている。その一部は『探究Ⅰ』においても、§193~194として、切り詰められて取り込まれている。

(ただし、『数学の基礎』、『探究Ⅰ』ともに、それらの断章が他のさまざまな断章と一緒に織り込まれて、それぞれ別個のテキストが成立していることに注意しよう。)

 

 注目すべきは、「メカニズム」がシンボル化するにあたっての「」(Bild)の役割が示唆されていることである。

われわれは、ある機械Maschineあるいは機械の像を、特定の作動仕方のシンボルとして使用する。(・・・)

機械、もしくは機械の像は、ある系列をなす像の最初となるものであり、われわれはこの最初の像からその像系列を導き出すことを学んだのだ、と言えるかもしれない。

(PI 193,  cf. RFM Ⅰ122)

私はこう言おう、数学的機械の働きとは、ある機械の働きのに過ぎない、と。(RFM Ⅳ 48 )

「数学の基礎」が集中的に考察の対象となった最後の時期にすら、メカニズム、像、内的関係、証明、の絡みが取り上げられている。cf. RFM Ⅶ 72 

これらのことから「数学の基礎」の議論における「像」概念の重要性が覗えるが、ここではこれ以上立ち入らない。

 

2.

この2つのつながりは、しばしば紛れた姿で、われわれの前に現れる。ウィトゲンシュタインは、それを哲学的混乱の大きな源泉と見ていた。

上で言及した断章では、「メカニズム」を母体とした類比によって混乱が起きる様を描こうとしている。

また、『論考』のパラダイムを引きずった中期の「数学の基礎」論(『考察』や『文法』Ⅱ部)は、この2つを峻別しようとする、彼の集中的な努力の跡を示している。

 

だが、中期から後期への転回において次のようなことが明らかになった、と当ブログでは推測した。

2つのつながりの「紛れ」は、彼が努力したように、不純なものとして排斥できるようなものではなく、われわれの言語ゲームの根元に位置するものであること、

なぜなら、われわれの営む言語ゲームの多くは「像が規則の表現となるゲーム」であり、描出と規則、という二重性が存在するのであるから。

(内的関係を外的関係から切り離すことは ーまた像を予言Vorhersageから切り離すのはー 私には困難である。)

数学的命題の二重性ー法則Gesetzとしての性格と規則Regelとしての性格

( RFM Ⅳ 21 )

重要なのは、その「紛れ」こそが 数学という実践を、数学の拡張性を、支えていること:「異なる技術をつなぐ」「類比の復権

 

3.

 『数学の基礎』では、このような「紛れ」をめぐって、いろいろな問いかけがなされている。「実験と計算」の問題はその一つである。さまざまな「紛れ」の様態を考察することは、『数学の基礎』の最も重要なテーマの一つであった。

その内容の検討に深入りすると、「理由と原因」に戻ってこられなくなるので、これ以上は進まない。

 「理由と原因」をめぐる議論においては、書物の形で公刊されたものを見る限り、そこまでの議論の深まりは見られなかったようである。

 「数学の基礎」の議論こそが、ある時期まで、ウィトゲンシュタインにとっての「メインストリート」だった、と言いたくなるのは、そのような理由もあってのことである。

 

 4.

ここまで、ウィトゲンシュタインが、「原因と理由の差異」を強調する議論を行ったとき、どのような言語ゲームでのやり取りを念頭に置き、どのような類比によって考察を進めたかを見てきた。

すなわち、意図的行為の理由を述べることが典型的事例として取り上げられて、「メカニズム」と「計算」によるアナロジーによって議論が進められた。

また、事象の辿る経緯が、「道筋(道程)」の比喩で語られていた。

理由を与えるということは、一連の計算過程を辿ることであり、理由を求めることは、いかにしてその結果に到達したかを問うことである。(WLC1932-35, p4-5)

ここでは「なぜ君はそうしたのか」は「どのようにして君はそれに達したのか」を意味する。君は理由を挙げる。自分の歩んだ道程を述べる。 (LCA,p21)

 

ここまで見てきたウィトゲンシュタインの主張に対しては、素朴な疑問をいくつか投げかけることができる。

ウィトゲンシュタインは、原因と理由が常に区別できるかのように断定的に語るけれども、非意図的行為の場合など、「原因」を挙げることが行為の「理由の説明」となる場合も非常に多い。

② 自分の意図的行為の理由を説明する場合に、それまでの道筋でなく、その行為が実現しようとする将来の目標を述べること(すなわち、意図を述べること)がむしろ普通である。

全体の「道筋」を辿るのでなく、一つの行為のみを述べることで、理由が示されることもある。

 

これらの疑問は決して軽いものではなく、問題の根幹にかかわるものである。

まず、①については、ここで直接扱うには問題が広すぎる。ウィトゲンシュタインは明言していないが、彼の主張は、原因と理由の差異を強調するために、あえて話題を意図的行為の説明に絞っている、と考えることで一旦次に進みたい。

②についても、「原因と理由」を越えて「意図」、「動機」とその説明の問題に触れてくるので、後に回し、まず③から見てゆこう。