類比の復権

1.

前々回、前回、見たように、「規則の適用」という概念に、事実として「揺らぎ」が存在する限り、後期ウィトゲンシュタインの姿勢からして、中期の立場は受け入れることのできないものである。そのことを改めて確認しよう。


中期の立場では「95+167=?」は「正規の問い」であるが「角を三等分せよ」は「擬似の問い」であることになってしまう。なぜなら、「角を三等分する」ことは「論理的に不可能」(PGⅡ27)だから。

探索の方法が存在しないとき、問いもまた意味をもつことができない。(PGⅡ25 坂井秀寿訳)

では、上で言う「角を三等分する」とは何か?言うまでもなく、「定規とコンパスのみを用いて角を三等分する」こと、すなわち、初等幾何学で認められる作図方法による、任意の角の三等分である。この「角の三等分」と、われわれが(例えば)分度器を用いて行う「角の三等分」との関係はどのようなものか?

前者は、ユークリッド『原論』のシステムにおける概念である。これと後者の「角の三等分」とは、(いわば)それぞれが属する「システム」が異なるゆえ、峻別されるべきである、というのが、ウィトゲンシュタイン中期の立場であった。(奥雅博『ウィトゲンシュタインの夢』を参照。)

それゆえ、その立場では、両者を「角の三等分」として同一視するのは悪しき混同に他ならない。

数学をチェスのようなゲームにたとえるなら、

ゲームはそれぞれの規則が作り上げる体系である。ゲームの各要素が何であるかは、当のゲームの規則の総計のみが述べることができる。(奥雅博『ウィトゲンシュタインの夢』p29)

以前(文法と応用 - ウィトゲンシュタイン交点)注意したように、中期においては、専ら、文法の自立性、つまり、現実からの、適用からの自立性が強調されていた。

他方、ゲームとその適用を区別することは、規則の体系性を浮かび上がらせる機能を持っている。即ち、インクのしみ、数字はゲームの適用であり、規則の体系としてのゲームを背景としてはじめてその「意味」を獲得するのであるから、仮に背景としてのゲームが異なれば、同じ外見をした記号もその「意味」を異にすることになる。(奥雅博『ウィトゲンシュタインの夢』p30)

そこでは、文法と現実とは「別物」であり、あたかも現実への適用なしに文法が成立できるかのようであった。

だが、応用は計算に何を授けるのだろう?応用は計算にさらに新しい計算を付け加えるのか?もしそうなら、それはいまや別の計算になる。あるいは応用は計算に、数学(論理)にとってある本質的ないみで、内容を授けるのか?それなら、たとえしばらくの間でも応用を度外視できるのはいったいなぜか?・・・

われわれにとって文法とは一個の純粋な計算である。(ある計算の、現実に対する応用ではない。)(いずれもPGⅡ15より。坂井秀寿訳)

 しかし、この見地は、さまざまな仕方で、「パラドクス」や「フレーゲ・ギーチ的問題」に、すなわち、常識とは相反する結論に導くものであった。その一端は以前に確認した(論理的に不可能なものの記述 - ウィトゲンシュタイン交点)。

例えば、フェルマーの命題は、数学者たちの前に未解決問題として立ちふさがっていたときと、証明つきで解決が与えられたときでは、異なった意味をもつ、と言わざるをえなくなる。後者は数学的構成であるが、前者は、いわば「経験的素描」である、と。

同じく、フェルマーの命題においても、われわれはある経験的素描Gebildeをもつ。それは仮説として解されるのであり、したがってーもちろんー構成の終点としてではない。それゆえ、問題は、ある意味では、解決が与えるのとは異なるものを尋ねているのだ。(PGⅡ22 )

 2.

それに対して、『数学の基礎講義』以後では、数学的命題と適用(応用)の関係が強調される(これも文法と応用 - ウィトゲンシュタイン交点で確認した)。

記号ゲームを数学にするものは、数学外での使用、したがって記号の意味である。

ちょうど、私がある形象を他の形象に(例えばある椅子の配置を他の配置に)変換するとき、この配置がこの変換の外では言語的使用をもたないなら、それは全然論理的推論でないのと同じである。 (RFM Ⅴ2, 中村秀吉・藤田晋吾訳p266)

我々がそれらを証明と呼ぶのは、それらが適用されるからである。そして、もし、それらを予測のために使用したり、適用したりすることなどができないのであれば、われわれはそれらを証明とは呼ばないであろう。(WLFM p38)

 

次のような発言にも、数学的構成と応用との密接な関連の主張を見てとれる。

「この黒板の上の五角形が正五角形であることを、あなたはどのようにして知ったのですか?」と誰かに尋ねられたとせよ。「角度と辺長を、分度器と物差しで測定し、それらが等しいことがわかったから。」と答えることもできよう。しかし、別種の回答の仕方がないだろうか?つまり、作図を行うことで、正五角形であるか否かを割り出す、という方法が。後の方法は、作図を一つの測定の形式と成す。では、どうしてわれわれは、作図を測定の仕方として認めるのか?それが現実にうまくいくからである。すなわち、2つの測定の仕方が、同じ結果をもたらすからだ。

チューリング:他にも理由がありますよ。

ウィトゲンシュタイン:それは、あるだろう。確かに、それが唯一の理由と言うわけじゃない。でも、あるプロセスがその「他の理由」にかなう場合でも、もしそのプロセスが正五角形を生み出さなかったなら、われわれはそれを五角形の作図と呼ぶかね?(WLFM p38)

ここでは、同じ「正五角形の測定」という概念のもとに、2つの異なった技術がつながれる(異なる技術をつなぐ - ウィトゲンシュタイン交点)(すなわち、類比のはたらき)。それが「記号ゲームを数学にする」(RFM Ⅴ2)と言われるようになったのである。

 

ウィトゲンシュタインは、中期において、ゲーム(文法)と適用とを峻別し、それらの間の類比(混同)は、哲学的混乱に導くものとみなした。ところが、今や、ゲームと適用との類比が、付帯的でなく必須のものとして、「論理の領土」の中心に回帰してくるのである。