実験と計算

1.

経験的命題:文法的命題 の関係にパラレルな関係が、実験と計算(あるいは証明)の間に成り立つ。

「私がこれを再度おこなったとせよ」-ここで「これ」は、この結果を含意しない。さもなければ、それは実験ではなく、計算である。-内的関係が存在することになるから。実験であるための条件は、結果を含意しないことである。(WLFM, p97)

 ワトスン:チューリングを弁護して、もしその人がある規則を守ったならいかなる結果を得るか、人は見ようとするのだ、と言えるかもしれません。
ウィトゲンシュタイン:そうだ。-ただし、この場合、「規則を守る」ことの中に、まさにこの結果を得ることが含まれているのでない限りで、だが。次のように言うことはできる、「われわれは、彼にこの規則を教えた。では、彼がその規則を守るときどのような結果を得るか、見てみよう」と。だが、そのとき、規則を守ることは、ある結果に導くことも、また別の結果に導くこともできるものでなければならない。-その場合には、われわれは、彼がどのように規則を守るか見ようとしている と言うことができよう。
対するに、あらかじめ計算が行われているものとしよう。その場合、君はすでに、もし彼が規則を守るならいかなる結果を得なければならないかを知っているのだ。そのとき、それは、彼が規則を守るならばこれこれの結果を得るかどうかの実験ではなく、彼が規則を守るかどうかを見るための実験になるのだ。だから、その場合、次のように言うことはできない:「この実験は、彼が規則を守るならこの結果を得るということを教えた。」(WLFM p94)

ここでも、過程と結果の結びつきが論理的(内的)なものであるか否かがポイントとなることが、読み取れよう。

 2.

では、計算や証明の結果は、どこから得られるのか?
経験的命題が文法的命題に役割転換するように、ある実験の結果は規則として取り扱われるようになるかもしれない。

 つぎを吟味せよ。<われわれの数学は実験を定義に変える>(RFM Ⅶ 18 中村秀吉・藤田晋吾訳)

証明は最初は実験であるはずだ、ということができるかもしれないーしかしながら、その後、単に像Bildとみなされるようになる、と。(RFMⅢ23)

 いずれにせよ、規則の命題といえども、天から与えられたわけではなく、われわれが実践の内から編み出してきたものに違いない。

 これは一つの実験であり-しかも、後に計算として採用することも可能な行為である。
これは何を意味しているのだろう。そう、90%の人が一定の仕方で行うとしてみよう。私がこう言う、「さて、これが正しい結果だろう」。実験は最も自然な道筋は何であるか-人々の大多数が辿る道はどれか-を示すはずのものであった。今や、誰もがそのやり方で行為することを教えられる。ーそして、今では、正解と間違いが存在している。以前には、それらはなかったのに。
これは、荒れ野に道を造るにあたって、最も良い地を見出すことに似ている。われらはまず、人々をわたって行かせ、彼らが進むのに一番自然な道筋はどれであるかを見て、その後に道路を建設することができよう。計算が発明されたり、技術が固定されたりする以前には、正い結果や誤った結果というものは存在しなかったのだ。(WLFM, p95)

われわれは、2個の球と2個の球が、秤の上で、4個の球と釣り合ったがゆえに、2+2=4を採用したのかも知れない。しかし、われわれがその式を認定した以上、その式はもはや経験に影響されない。-その式は石化したのだ。(WLFM, p98)

 講義でのこれらの発言は、後の『数学の基礎』の中の文章を先取りしたものである。

 あたかも、われわれが経験的命題を規則へと硬化させたかのようである。そして、今では、経験によってテストされる仮説ではなく、経験がそれと比較され判断される範例Paradigmaを、われわれは手にしているのだ。そして、新たな種類の判断をも。(RFM Ⅵ 22)

25×25=625という命題の正当化は、もちろん、これこれの訓練をうけた人が通常の環境で25×25の掛け算をすれば625を得る、ということである。だが、その数学的命題は、そのことを主張しているわけではない。その命題は、いわば規則Regelへと硬化した経験的命題なのだ。それは、掛け算の結果が625である場合にのみ規則に従った、ということを約定しているのである。このようにして、その命題は経験によるチェックを免れ、経験を判断するための範例Paradigmaの役割を果たすことになるのだ。(RFM Ⅵ 23)

どの経験的命題も ー機械の一部のようにー 固定され、動かないようにされるならば、規則Regelとして働くことができよう。つまり、表現が全体としてその命題の周りを回転し、その命題は座標系の一部となり、事実に左右されないようになるなら。(RFMⅦ 74)

 3.

例えば、液体の溶媒に固体を溶解させた後の体積を計算する場合、単純にそれぞれの溶解前の体積を足し合わせることは不適切である。だからといって、通常の加算規則は「偽」なのではない。この場面ではそのままでは適用されないのである。
そのように文法的命題も、われわれによって是認、あるいは採用されたりされなかったりする。それを決定する要因をウィトゲンシュタインにならって「有用性」と呼ぶことができよう。

ポイントは、命題 「25x25=625」が二通りの意味で真でありうる、ということだ。もし、重量をその命題のように計算したとすれば、その命題を二通りの異なる仕方で使うことができよう。
まず、ある物体を測った際の重量を予言する命題として使う場合-この場合、その命題は真または偽であり得るし、経験的命題である。当の物体を秤にのせた時625グラムという重量が示されなかったとしたら、私はその命題を誤っていると言うだろう。
もう一つの意味において、その命題は、計算がそう示すなら、正しい。-すなわち、そのように証明されるならば。-つまり、ある規則に従って、掛け算25掛ける25が625を生じるならば。
その命題は、一方の意味で正しく、他方の意味では正しくないことがありえるし、反対もまた同様である。
われわれが普段25x25=625という言述を使用するのは、もちろん、二番目の仕方においてである。われわれは、その正しさ、あるいは正しくなさを経験から独立させるのだ。その正しさは、ある意味で、経験から独立しているのだが、別の意味においては独立してはいないのである。
経験から独立しているというのは、何事が起こっても、われわれはその命題を偽であるとは呼ばないし、放棄したりしないからである。
他方、経験に依存しているというのは、物事の在り方が全く異なる風であったなら、この計算を使用することはなかったであろうからである。その命題の証明が証明と呼ばれるのは、その命題が経験的に有用な結果をもたらすからなのだ。(WLFM, p41)

この命題を基準として定める主要な理由は、それが行うに自然なやり方、進むに自然な道であるからだ-これらの人々皆にとって。(WLFM, p107)

範例Paradigmsや比較の対象については、有用である、有用でないと言いうるのみであり、それは測定の単位の選択に対してそうであるのと同様である。(WLFM, p55)

「文法については、経験的命題のように真偽を言うことはできない」とする、ウィトゲンシュタインの有名な主張はこのような考察を背景にしている。