「説明」の周辺(7):「並べて」「見せる」、合意と注意

1.

前回引用した文から、次のようなことが示唆されている。すなわち、「説明」が正当化のためになされる場合、そこで描出される「道筋」は、「ある受け入れられた規則に合致する」という性格を持つべきである、こと。

人が為したこと、言ったことの理由を述べることは、その行為に至る道程を示すことを意味する。ある場合には、自らが歩んだ道を話すことであるが、別の場合には、ある受け入れられた規則に合致する、そこに至る道筋を描写することである。(BBB, p14)

 

※ただし、「正当化」には、その道筋が「善きもの」であることを述べるというやり方もある。

また、目指されている「目的」に合致するものであることを述べる仕方もある(以前「3つの疑問」で②として取り上げた)。

これらに関連することは、次回以降「動機」を扱うときに触れる予定である。

2.

 「道筋」が「ある受け入れられた規則に合致するもの」であることをどのように示すか。

明確な仕方としては、あらかじめ存在する「範型」に並べて比較して見せること、がある。その場合、「範型」は規則の表現として使用される。

『茶色本』Ⅰ部(33)や(41)で例に出されているような、<アルファベットの文字と進行方向を示す矢印が対置されている表> があらかじめ与えられ、[aacaddd]のような命令に対してそれに従った動きをする、という言語ゲームを考えよう。

 「君はなぜ、そのように動いたのか?」という問いには、与えられた命令と、規則の表を示し、その2つから動きを復元することで答えることができよう。もちろん、復元された動きが、正当化されるべき動きと同じものであることも示されねばならない。そのためにはこの2つを比較することも必要となろう。

 

一見当たり前でつまらないことのようだが、ここで、「並べて比較する」ことと、「示す」(すなわち「見せる」)こと とが正当化のポイントとなっていることに注意しておこう。

この2つが「美学的説明」のポイントでもあることはいずれ確認する。

美学のしていることは、しかるべき特徴に注意を引くこと、これらの特徴を示すためにいくつかのものを並べて置くことにほかならない。(WLC1932-35, p38, 野矢茂樹訳)

美学的な困惑を解決するために、われわれが現実に必要とするものは、ある種の比較ーある実例を一緒にまとめること、なのだ。(LCA,p29 )

 

3.

規則が、説明を要求する者にも、十分に「把握」されている場合、

説明として単に「道筋」だけを書き記すことによっても、それが規則に合致していることは伝わるだろう。

例えば、「"21×36=?"に、君はなぜ"756"と答えたのか?」と問われた者が、

『数学の基礎講義』第3講(邦訳p60 )にあるような筆算の図を書いて答えたとしよう。

通常の算数の教育を受けた者であれば、九九の表などを参照することなく、その図のみから「理由」を了解することができる。

このような図を書くことは、証明を書き下すことでもある(同上 )。

ウィトゲンシュタインは、同時に、それらを壁紙の装飾図案に類比して見せる(同上 )。

その他、計算の図(証明の図)を、ジグソーパズルの完成図に喩えることも可能であろう。

ウィトゲンシュタインは、『数学の基礎講義』では、そのような図を、主にpictureと呼んでいるが、「数学の基礎」に関するドイツ語の草稿においては、Bild(像)の語が使われている。

 

4.

ここで、以前取り上げた"singular causal explanation" に似た例 を再考してみよう。

その他の例とは、次のようなものだった。

A氏は普段、自動車を運転して出勤していた。

ある朝、上司に「君、どうして遅刻したの?」と聞かれて、

駅前通りが渋滞していたんです」と答えた。

 

B夫妻は、毎年正月に自宅を訪問してくる甥、姪、計5人に、お年玉をあげる習慣である。小学生には3千円、中学生には5千円与えることになっていた。

夫「今年のお年玉が、2,3000円もかかったのはどうして?」

妻「みんな大きくなってね、今年は中学生が4人になったのよ」

 これらの例は、上の喩えを利用して言えば、

ジグソー・パズルの完成の要となるピースを示すように、要となる一つの事象を示す説明である、と言えよう。

その場合、説明される者にとって残りのピースの組み合わせは容易に再現できること、が説明の成立の条件となる。

 

 5.

以上のように、ウィトゲンシュタインにおける「理由の説明」は、「計算」や「証明」に類比的であることが再確認された。

 

ところで、ウィトゲンシュタインは、「ある受け入れられた規則に合致する」のではないような「証明」の例に注目していた。

例えば彼によれば、「正五角形の定規とコンパスによる作図はこのようにする。では、正十七角形を同様に作図せよ」という問いに答える場合がそうである。(『数学の基礎講義』 第8講 )

ウィトゲンシュタインは、これに関する問題を何度も取り上げている(「2つの使用」のテーマ、cf. 『数学の基礎講義』第6講)

ウィトゲンシュタインは、そのような「証明」を「発見」ではなく「発明」に喩えた。そのような「証明」が為すことは、あらかじめ形成された概念の使用ではなく、既存の概念の改新という意味での概念形成Begriffsbiludungのための使用なのだ、と主張した。

(証明、計算と概念形成については、RFM Ⅲ24, 31, 41,Ⅳ31,47 を参照。)

「説明」においても、このような概念形成の役割に注意する必要がある。

 

では、そのような概念形成は何をもたらすのか?

「合意」Verständigungの形成、である、と言えよう。

証明において、われわれは誰かと一致する。(In einer Demonstration einigen wir uns mit jemand.)(RFMⅠ66, cf.RFMⅠ153)

 

次のように言えるであろう:証明は合意Verständigungに寄与する。実験は合意を前提としている。(RFM Ⅲ71 )

 

逆に、「計算」や「証明」の概念における、人々の合意、一致の重要性も確認しよう。

われわれは、こう言おう:証明は像である。だが、この像は、なお是認Approbationを必要とする。われわれが検算して与えるような是認を。

確かにそうである:だがその像が、ある人から是認を受けるが、別の人からは是認されず、人々が合意をなし得ないとき—われわれは計算なるものを有するであろうか?

そのように、像を計算にするものは、是認それのみではなくして、是認の一致Übereinstimmungではないか。(RFMⅦ9)

 

※しかし、一方で RFMⅦ43を参照すること

「説明」というテーマにおいても、「合意形成」の問題が重きをなすことは言うまでもない。

とりわけ、「美学的説明」において、「合意」「同意」は枢要な位置を占める。

というのも、美学的分析の正しさは、その分析が与えられた人の同意agreementにあるべきだからである。そこで、理由と原因の差異はこう表わされる。—理由の探求は、それに対するある人の同意を本質的な部分として含み、他方、原因の探求は実験によって為される、と。(WLC1932-35,p40, 野矢訳)

フロイトは、しゃれを別の形式へと転換し、われわれは、その形式の中に、観念の連鎖の表れを認めた。すなわち、その発端から、しゃれという終端に至るまで、観念の連鎖に導かれるようにして。これは適切な説明の全く新しい叙述形式である。経験に合致する説明ではなく、容認されてしまう説明なのである。君たちは容認されるaccepted説明を与えなければならない。これこそが、説明なるものの全ポイントなのである。(LCA,p18)

今これ以上説明する余裕はないが、「2つの使用」の問題を、「合意形成」「共同注意joint attention」といった視点から再検討することが重要であることをここで確認しておこう。