メインストリートに戻る

1. 
 前回引用した『数学の基礎講義』の初めの方でも、ウィトゲンシュタインは、道路の比喩を取り上げて言う。

私は、いわば、ある土地の旅で、君たちをガイドしようとしているのだ。数学において哲学的困難に陥るのは、他の領域でと同様に、われわれが見慣れぬ街にいて道がわからないことから起こるのだということを、私は示そうとしている。それゆえ、われわれは街のある場所から別の場所へ行き、さらにそこからまた別の場所へと行ったりしながら、地形を学ばねばならない。しかも、どこに置かれようとも、すぐに、あるいは少し周りを見るだけで、道が分かるようになるまで、何度も、だ。
この喩えは、本当によくできている。そして、良いガイドならば、人々にまず最初にメインストリートを示すことであろう。ところが、私は大変に悪いガイドであって、メインストリートを示す以前に、自分の興味の赴く些細な場所へ踏み迷い、わき道に突進してしまう。(WLFM, p44) 

 2.
哲学探究』の最初の部分となる原稿が書かれた後、ウィトゲンシュタインは数学に関する考察に力を注いだ。当初は、現在『数学の基礎』のⅠとして出版されている部分を、『哲学探究』の 第二部として、先行部分(『探究Ⅰ』の188節まで)に合わせて出版する計画であった。
しかし、結局そのプランは取り下げられ、実現しなかった。その後も、数学に関する多くの論考が書かれ続けたが、1944年を最後に数学の主題が集中して論究されることはなくなり、その後の研究の重心は「心理学の哲学」へと移された。
 彼の死後、1956年という比較的早い時期に、数学論に関する後期の草稿が編集され、出版された(『数学の基礎』)。しかし、研究者の反応はほとんどが当惑と批判であった。その後、より早期の遺稿であり多くの数学論を含む『考察』,『文法』が出版されたが、ウィトゲンシュタインの数学論に対する低評価は変わることがなかった。現実に、ウィトゲンシュタインの後期思想が解説される場合に、(評価は別にしても、)数学論の紹介にはほとんど重点が置かれないことも多かった。(例えば、ケニーの『ウィトゲンシュタイン』、ハッカーのInsight and Illusionなど)
 最晩年の遺稿である『確実性』は1969年に出版された。この遺稿はわれわれが確実と見なしている経験的命題に関する考察を中心的なテーマとしていた。それは一方では、そのような命題と数学的(文法的)命題との比較という問題を提起するはずであったが、実際には、経験的命題と数学的命題の区別の重要性が最終的には薄れたかのような印象を読者に対して与えがちであったかもしれない。
このようにして、その数学論は多くの読者の目からそらされてしまったようである。だが、第二次大戦終戦時までのウィトゲンシュタインにとって、メインストリートの主要部に数学論が位置していたことは、伝えられる事実などから明らかと思われる。「大変に悪いガイド」は彼自身だったのか、それとも彼と遺稿を取り巻く歴史的状況だったのだろうか。

3.
その後、70年代になって、クリプキが、「規則に従う」ことの問題を『哲学探究』全体の中心問題として提示した。それがウィトゲンシュタインの数学論の見直しの契機となったことは、よく語られてきた。
 ただし、数学論をメインストリートとして辿りなおすことは、なおも重要と考える。なぜなら、一つには、文法的命題の機能に関するウィトゲンシュタインの探究の足跡は、何にもまして数学論によく残されているからである。
『数学の基礎』における考察は、取り上げられる数学的諸例が異様にプリミティブなことで、読者を困惑させてきた。だが、そのような例を通して探究されているのは、数学という言語ゲームに固有の問題のみではない。つまり、文法的命題(数学的命題もその一部である)と経験的命題の対比という、彼のあらゆる議論の土台をなしているものが、平易で普遍的な例を通して、そこで執拗に追究されていることを読みとるべきである。

たとえば、実際の講義の記録である『数学の基礎講義』の前半は、まさに、経験的命題と数学的命題の使用の差異という問題をめぐって展開する。


※『数学の基礎講義』は教え子たちのノートから復元されたものであり、直ちにウィトゲンシュタイン自身の考察として扱うことはできない。しかし、ここでのウィトゲンシュタインは比較的に分かりやすい表現で語っており、彼自身による考察と違って論旨のつながりも辿りやすい。また反論を予想しつつ、それに対する再反論が丁寧に行われている点も特筆される。

 

 これまでの議論には、一つの要点があった:すなわち全く似通った外見を持つ数学的命題と経験的命題の、使用における本質的な差異を示すこと、である。(WLFM, p111)

さて「20個のりんごと30個のりんごを加えると50個のりんごになる」は、りんごに関する命題か?そうでもありえよう-たとえば、りんごが外から混入しなかったことを述べている場合-しかし、もちろん、数学的命題でもありえるのだ。(WLFM p113)

事実、それが数に関する命題である場合も、りんごに関する場合も、同じ命題なのであるが、ただ全く違った仕方で使われるのである。(WLFM p114)

 

すなわち、問題となっている差異は、字面に現れる違いではなく、使用の差異なのである。この問題がウィトゲンシュタインにとっていかに重要なものであったかは、今後、繰り返し見てゆくだろう。

ここで数学的命題を文法的命題に置き換えても、同様のことが言える。
問題の差異が、使用の差異であり、字面の差異ではないから、次のような誤謬が生じる。すなわち、文法的命題を拒否することと経験的命題を偽とすることとを混同する、という誤謬が。

 われわれが避けたいのは次のような誤謬である:シンボル体系の特定の形式を拒否するとき、われわれはそれをあたかもある命題を偽であるとして拒否するかのように見てしまう。ある測定単位の拒否を、それが「その椅子は2でなく3フィートの高さだ」といった命題の拒否であるかのように扱うのは間違っている。この混同が、哲学の全体を侵害している。哲学の問題を表現の問題としてでなく、世界の事実に関わる問題として考えることも、これと同じ混同なのである。(WLC1932-35,p69)