実験と計算を往還する(1)

1.

前にも触れたように、(直感的に)現実への応用が見当たらない数学は膨大に存在する。

そのような数学についても「二重性格」ということが言えるのだろうか?

 セマンティックな関係を抜きにして、この「二重性格」に相当することを言うためには、一度視点を照準し直す必要がある。

 2.

「計算とは、計算自身の固有な応用である(PGⅡ15)」「数学的命題の一つの応用は、つねに計算すること自体でなければならない。(RFM Ⅳ8)」という、計算の自律性のテーゼを思い出そう。

計算が規則に従った記号操作であり、「正しい計算(答え)」の適用によって、是認や修正を受けるとするならば、外部の事象のあれこれに応用される以前につねにすでに、計算自身を構成する現実の記号操作に「応用」されている、と言えるだろう。

つまり、「計算」の概念には、(規則に従っているか否かという意味での)「正-誤」の観念が属している。そして「正しい計算」を設定するということはすでに、現実に対する範型の適用を意味している。

※計算、証明とも、規則に従う記号的構成という共通性があることは以前確認した。それを理由の一つとして、ここでは議論の便宜上、計算、証明を同じカテゴリーに属するものとして扱う。そして、これらに便宜上、数学的命題を代表させている。

 

 3.

これに関連して重要になるのは、数学的命題を受け入れることは、(現実に行われた一つの実験の結果を認めるように)ある事態を真であると認めることとは区別される、という主張である。

私がウィズダムに対して、二つの非常に大きな数の掛け算をするように言い、後で彼に結果を尋ねるとしよう。(・・・)

しかし、もし彼が「これが私の得たものです」と言うなら、―これは数学的命題ではない。我々はどうやってここから、「かくかく掛けるしかじかはこれこれである」という数学的命題へと移るのだろうか。(・・・)

我々は数学的命題について同意しているのだろうか、それとも、この結果を得ることにおいて一致している(agree in)のだろうか。両者はまったく異なる事柄である。

人々が一致せねばならないのは何なのか。彼らはこれを得ることにおいて一致する。彼らは「私はしかじかを得た」と言うことーあるいは、最後に同じ数へと至ったということ等々ーにおいて一致するかもしれない。しかし、これが答えであるわけではない。まだ「答え」などといったものはない。ーというのも、まだ技術が存在していないからである。この時点では「・・・掛ける・・・は・・・である」は何も意味していない。まだ数学的命題は存在していないのである。彼らは自分たちがすることにおいて一致しているのである。

 数学的真理は、それが真だと彼らが皆同意することによってはーあたかも彼らがその目撃者であるかのようにしてはー確立されない。彼らが自分たちのすることにおいて一致しているがゆえに、我々はそれを規則とし、アーカイブに入れる。我々はそうしてはじめて、数学へと至る。(WLFM,

p106-107, 大谷弘・古田徹也訳)

 ある事実(例えば「ウィズダムが10⁹を得た」)を皆が認めることのみでは数学的命題を認めることにはならない。同じ操作の結果「10⁹を得る」ことについて皆が一致し、その操作が(結果「10⁹」に至る)一つの技術として確立されたとき、「かくかく掛けるしかじかは10⁹である」は数学的命題となる。(ここにおける「操作」は、繰り返し行うことが可能なものでなければならない。)

4.

ここで、「計算」「証明」が本質的に持つ「再現可能性」の問題が浮かび上がる。

われわれが、ある構成を「証明」と呼ぶのは、その構成を再現することがたやすい課題である場合に限られる。(RFMⅢ1)

計算も、正しい答えに到る記号的構成として、同一のものとして、再現可能でなければならない。

次の断章は、証明(ここでは、切片を組み合わせた図形)、再現可能性、予言の間の関係を例示している。

しかし私は、例えば組み合わせパズルの解の写しを見れば、実際にこういう、「この図形がこれらの部分からつくりうることを納得した」と。

そこで私が誰かにそのことをいうならば、それは確かにつぎの意味になる、「とにかくやってみたまえ!これらの切片は正しく並べると、実際にこの図形ができる。」私はかれを励まして何かをさせ、きっとうまくゆくという。この予言は、その仕方を知れば、すぐさま容易に組み立てられる、ということにもとづいている。(RFMⅠ59 中村秀吉・藤田晋吾訳)

詳しい説明は省くが、ウィトゲンシュタインは「像の遠隔作用」ということを言い、それは「私がその像を使うanwendenことだ」と答えている(RFMⅠ65、cf.RFMⅠ62)

 

再現性は、以前軽く触れた「一瞥性」「見渡し可能性」の問題に関連する。

上に引用した「ウィズダムの掛け算」の例で明らかなように、ウィトゲンシュタインは一方では「見渡せない」計算、規則の存在を認めていた。

その存在は、規則の役割をする命題が、「見渡せる像」というモデルあるいは「証明」というモデルを越えて、拡張されて捉えられるべきことを示してもいるだろう。

※ただし、証明においても、四色問題の解決の場合のように、計算機を用いた「証明」における「見渡し可能性」が問題となる。

 

規則の表現に関連する、再現可能性、見渡し可能性Übersichtlichkeit,Übersehbarkeit、自明性、(結果または過程が定まっているという意味での)決定性、これらの概念の類似と差異を明らかにすることは重要である。

 

深入りして論じることはなかったが、ウィトゲンシュタインはこの問題を、われわれの文明の特徴にかかわることとして捉えていた節がある。

見渡せる描出die übersichtlichen Darstellungという概念は、われわれにとって根本的な重要性を持つ。それは、われわれの描出の形式、われわれがものdie Dingeをみる見方を示している。(それは ある<世界観Weltanschauung>なのか?)(PI 122)

5.

以上のことは、「計算」「証明」が「像」であることに関係する。

ある物事が実験であるか、計算であるか、テストする良い仕方は、当の実験を現実に行わなくとも、実験の像を描いてみるだけで十分であるかどうか、問うてみることである。(WLFM,p99)

彼がチェスの駒を動かして、「このように、詰めることができるよ」と言ったとせよ。これが計算であることはそれが示す通りだ。それを「時間的temporal」「非-時間的 non-temporal」という言葉で表すことができよう。計算は、時間的temporalな結果をもたらすものではない。計算は、人が今、詰めることができること を示すのではない。計算は、詰めることの、詰めると呼ばれることの像なのである。(WLFM,p100)

よって、私はこう言うことができよう、証明は実験としてではなく、実験の像として役立つ、と。(RFMⅠ36)

次の比喩を考えてみること。

次のように言えるかもしれない:チェスにおけるすべての可能な盤面は、それ自身が可能な盤面であることを語る、命題とみなすことができる、と;あるいは、人は、規則に従っていると、皆と一致して認める指し手を重ねることで、この盤面に到達できるだろう、という予言とみなすことができる、と。そのとき、そうやって到達された盤面は、そういった内容の証明された命題である、と。(RFMⅢ67)

 ここでは、規則にしたがって得られたチェスの盤面を、自らの範型、自らの予言として把握する試みがされている。ウィトゲンシュタインが捉えた「計算」「証明」とは、このように自らの像となり得るような存在であった。