「説明」の周辺(5):隠された構造

1.

 前々回、ウィトゲンシュタインの「理由」理解に対する疑問の一つとして、

①全体の「道筋」を示すのでなく、一つの行為のみを述べることで理由が示されることもある。

という事実を挙げておいた。

彼の説明によれば、あたかも、理由を与えることは「計算過程」の道程を示すことであるかのように理解されるかもしれない。(実際には彼の言葉には曖昧さがあるが。)

理由を与えるということは、一連の計算過程を辿ることであり、理由を求めることは、いかにしてその結果に到達したかを問うことである。
(WLC1932-35、p4-5)

次の例は、全過程の描出の例と言えるかもしれない。(そうでない、と見ることも可能であろうが。)

私が、ある人に紙片を指さして「私はこの色を”赤”と呼ぶ」と言ったとする。その後に「私の前に、赤い色を描いてくれ」と命じる。
彼が描いたら聞いてみる、「私の命令を実行するのになぜ君はこの色を描いたのか」。
彼の答えは次のようであるかもしれない。「(私が彼に与えたサンプルを指さしながら)この色が”赤”と呼ばれました。そしてご覧のように、私が描いたのはこのサンプルの色です。」
彼は、命令をこのように実行した理由を述べたのだ。( BBB,p14)

それに対して、次の例を考えよう。

B夫妻は、毎年正月に自宅を訪問してくる甥、姪、計5人に、お年玉をあげる習慣である。小学生には3千円、中学生には5千円与えることになっていた。

夫「今年のお年玉が、2,3000円もかかったのはどうして?」

妻「みんな大きくなってね、今年は中学生が4人になったのよ」

妻の発言は「計算過程」の全部に触れてはいないし、その道程を辿ろうともしていないが、夫は妻の発言を、十分な「理由の説明」として受け入れることだろう。

 

2.

このような現象は、「原因」による説明にも、普通に観察される。

以前取り上げた、A氏の遅刻の場合。

A氏は普段、自動車を運転して出勤していた。

ある朝、上司に「君、どうして遅刻したの?」と聞かれて、

駅前通りが渋滞していたんです」と答えた。

A氏の出勤という行為は、靴を履くこと、自宅のドアを開けること、ガレージまで歩くこと、・・・といった数多くの行為からなっている。

その途中に、「自動車を運転しながら、駅前通りを通過すること」が含まれる。

しかし、中途の一過程の背景に過ぎない「駅前通りが渋滞していた」のみでも十分な説明と見なされるだろう。

 

3.

ウィトゲンシュタインの講義でも、全過程を辿るのでない説明の仕方の存在が示唆されていた。

推論 reasoning とは実際に行われた計算であり、示された理由は、その計算において、ステップを一つ前へ遡るのである。理由は、ただそのゲームの内部においてのみ理由となる。
理由を与えるということは、一連の計算過程を辿ることであり、理由を求めることは、いかにしてその結果に到達したかを問うことである。(WLC1932-35, p4-5)

理由を示すことが、前の文では、一つ前のステップを示すことであり、後の文では、一連の過程を辿ることとされる。ここには見たところ、食い違いがある。

 さらに、実際の日常的会話を見れば、理由の示し方は、「一つ前のステップを示す」ことと「一連の過程を示す」ことの二者択一ではなく、たとえば、数段前のステップを示すことで行われる場合もあることがわかるだろう(遅刻の理由の例)。

つまり、理由を示す仕方は、ウィトゲンシュタインが講義で述べているよりも多様であることが。

 

4.

似た問題は、科学的説明をめぐる科学哲学の議論にも登場する。

( cf. James Woodward, "Scientific Explanation " in Stanford Encyclopedia of Philosophy )

ヘンペルのDNモデル(演繹的‐法則的モデル)の概念とは、ごく簡単に言うなら、

自然法則的な言明を含んだ、「説明する文」の集合(explanans)から、「説明される文」(explanandum)が、妥当な演繹的推論によって導出されるとき、その説明は「科学的説明」の条件を満たしている

というものである。

 

これに対する反例として挙げられたものに、"singular causal explanation" の例がある。

例えば、

「私の膝が机に当たった衝撃で、インク瓶が転倒した。(The impact of my knee on the desk caused the tipping over of the inkwell.)」

この文は、いかなる法則的言明も演繹的推論も明示的に含まない単文であるが、「インク瓶の転倒」の説明、と呼んでも少しも変ではないだろう。

 

この議論に対して、ヘンペルは次のように反論した。

問題の文は、単に 膝の衝撃に引き続いてインク瓶の転倒が起こったことを述べる文 とは異なり、ある法則性の存在を「暗に」(implicitly)主張するものであるはずだ。そのような法則性の主張を含んだ、DNモデルにかなうような、完全な推論構造が、表に現れた文の背後に隠されているのだ、と。

確かに、例の文は、衝撃に引き続いてインク瓶の転倒が起こったことの単なる記述 とは異なった意味を持つ。(その意味は "caused" という語にかかっている。)その点で、ヘンペルの指摘は的確である。

しかし、推論構造が「隠されている」というのはどのような意味だろうか?例えば、例の文章を理解するとき、われわれは自分の頭の中で、その一続きの推論を繰り返したりするのだろうか?

 

 Woodwardは、ヘンペルの主張から、もう一つの解釈の可能性を引き出している。

すなわち、ヘンペルが主張するような「隠された構造」は、理念的な(ideal)説明の形態を表したものであり、例の説明文はそれに比較されるのである。

そして、例の説明文は、理念的な説明を部分的に、あるいは不完全に提示するものである、という解釈。

しかし、ここでも「理解」の内実が問われる。

「部分的」ないし「不完全」な説明が、そのままの姿で、十分な説明として受容されるのはなぜか?。

「部分的な」「不完全な」説明を理解する者は、「隠された構造」を知っているはずなのか?ここで「知っている」とは、具体的にどのような事態を意味するのか?

 

これらの議論は、われわれの問題とも関連性を持っている。

ただし、共通した論点を細かに掘り起こしてゆくことや、包括的な回答を探し求めることは、荷が重すぎる。

ここで焦点を当てたいのは、説明とその「理念型(隠された構造)」との関係がもたらす問題である。ウィトゲンシュタインは、両者の混同から生じる問題に度々注意を引いているからである。