像が規則の表現となるゲーム

1.

意図の表現の問題を離れて、より一般的なゲームにおける記述、命令、規則、の関係をウィトゲンシュタインがどう取り上げたかについて、ごく大まかに見ておく。 

 

以前(規則の表現)触れたように、『文法』Ⅰ43で既に、規則の表現とゲームの記述(あるいはゲームの自然法則)との関係、類似性というテーマが取り上げられている。

 

後の『茶色本』(p95~)では、「われわれは何を規則と呼ぶのか?」と問うた後に、アルファベットの字母を組み合わせて行為の仕方を命令する言語ゲームの様々なヴァリエーションを例にして考察を進めている。

まず、33)のゲームでは、命令する者A、命令される者Bが登場する。字母と(方向を示す)線分の組み合わせを示す図表がゲーム内に登場し、(例えば)「aacaddd」という命令を与えられたBが、図表から進行の道筋を読み取って進む。

34)で提示されるのは、線描きの紋様を描くゲームであり、字母と線分の組み合わせが決まっていることは33)と同様である。Aから(例えば)「cada」という命令を与えられたBは 対応する線分を組み合わせた紋様を単位として、それを繰り返して紋様を延ばしてゆく。

 (重要なのは、両方のゲームにおいて、Bの思考活動、質問等の言語的反応については、何も描写されていないこと、したがって、Bが単に命令を 与えられる形のまま受け取るだけの存在であろうこと。)

ウィトゲンシュタインが指摘するのは、

33)の図表は規則の表現と呼べるが、命令の文「aacaddd」は必ずしも規則の表現とは呼べないこと、(しかし進行の記述descriptionとは呼べること、)

それに対し、34)での「cada」は文様を描くための規則の表現と呼べること、である。

つまり、33)のゲームでは命令文と規則とは区別されるのに対し、34)では命令文がまた規則でもある。

 (ウィトゲンシュタインがそのように主張する理由について、吟味する必要もあろうが、今回は省略)

「aacaddd」という文sentence自体を 規則とは呼ばないほうが良いだろう。もちろん、それはBが進むべき道筋の記述descriptionではあるが。ただし、そのような記述も、特定の状況の下では、規則と呼ばれるのである。(BBB p95-6)

 その状況とは、一つには次のようなことである。

大まかに言って、われわれが規則と呼ぶものを特徴づけていることは、それが限定されない数の事例に繰り返し適用されるということである。(BBB p96) 

(cf.PI 198, 199

 

ウィトゲンシュタインに従えば、次のようになる。

 すべての状況で、行為を記述する文が規則の表現になるわけではない。

しかし、特定の状況下では、そのような記述の文が規則の表現ともなりうる。

そして、その特定の状況の一部は、文が(命令や記述として)限定されない多くの事例に繰り返し適用可能なことである。

 

後者のような特定の状況を備えたゲームを、「像が規則の表現となるゲーム」と呼びたい。つまり、ここでの「文」は、ウィトゲンシュタインが言う「像」の一種であると考えよう。

そのようなゲームは、人間の行う言語ゲームのすべてではないが、非常に重要で大きな部分を占めているのである。

 

また、33)で登場する形式の図表一般に対して反応できるように訓練を施された生徒に対して、従うべき図表と「aabc」のような命令を組み合わせて与えるゲームが、41)(p98)で示される。ウィトゲンシュタインは、このゲームにおける、「文」(と「図表」)の区分の曖昧さを指摘する。(『論考』において、真理表がそれ自体、命題であること、を思い出させる。cf.TLP5.101,6.1203)

 とすれば、彼の言う「像」の概念は、一般的な「文」に留まらず、非常に幅広い記号表現に及ぶことが予想される。