「説明」の周辺(2):「計算」の比喩

1.

 前回述べたように、「説明」の周辺を掘り下げると、まず「理由と原因」の問題に突き当たる。そこで、ウィトゲンシュタインによる「理由と原因の差異」の議論を見てゆきたいのだが、前もって考えておかなければならないことがある。

 

前回見た「A氏の遅刻の場合」のように、ある事柄の「理由」と呼ばれるものが、その事柄の「原因」とも呼ばれる、という事例はごくありふれている。

一方、今後見てゆくように、他の種類の使用事例では、「理由」と「原因」は自然に区別できるものとして現れる。

ただ、それらは筆者が日本語の身近な使用例と(個人的な)「語感」から導き出した結論である。そのような「理由」と「原因」の使用の重なり合いと区別は、日本語のみならず、地球上の言語的コミュニティの多数でおおよそ共通した姿をとるだろう、と思いたくなる。だが、それをきちんと調べたわけではない。

個人の「語感」に基づいた判断を、「理由」「原因」に対応する外国語に素朴に適用することについては、まずは慎重であるべきだ、と言われるだろう。もちろん、外国語といっても多様であり、英語、ドイツ語…、それぞれの事情を個別に考慮しなければならない、と。

 

さて、ウィトゲンシュタインの場合、事情は少し複雑である。

考察のノートはほとんどドイツ語で記していた一方、講義は英語で行っていた。

「理由と原因」に関する考察についても、当然、ノート、草稿の中ではドイツ語で書かれ、講義録では英語で書き取られている。

ドイツ語の「理由」に当たる語は" Grund "だが、これは同時に「根拠」といったニュアンスも持っている。英語で相当するのは、" reason", "ground(s)" の2つであるが、『探究』のアンスコムによる英訳では、ほとんどが" reason"によって訳されている(ように見える)。藤本隆志による『探究』日本語訳では、専ら「根拠」で訳されているようだ。

(日本語において、「理由」と「根拠」には、使用の重なりと明瞭な相違とがある。「君がそう主張する理由は何だ?」は「君がそう主張する根拠は何だ?」と言い換え可能である。それに対し、「君が遅刻した理由は何だ?」と言うのに対して、「君が遅刻した根拠は何だ?」とは言わない。「根拠」は、判断、主張について正当化がらみで使用される傾向にある。)

一方、講義録の中では、" reason"によって、"cause" との差異が論じられている。

  

そういった事情から、まずは" Grund "," reason", "ground" ,「理由」「根拠」、それぞれの意味の重なりとズレを(コーパス等を使って実証的に)理解した上で話を進めよ、と言われれば、正論ではあっても筆者の力では先に進めなくなってしまう。 

次のような姿勢で、ともかく前進してみよう。

「理由と原因」については、一般的な議論は後に回し、まずウィトゲンシュタインの言葉を引いて、彼がどのような差異を強調したのか、という観点から見てゆく。彼がどのような言語ゲーム登場する「理由」「原因」を、どのような類比によって考察したのか、に注意する。

<「理由」、" Grund "," reason">、<「原因」、"Ursache", "cause">という2つのグループについて、それぞれの内部で十分に似た意味(使用)を持っているとみなして話を進める。違いが表面化したときは、必要な考察を行う。

 

 2.

ウィトゲンシュタインが、理由と原因の差異を考察する際に題材としたのは、人間の行為と、その理由/ 原因を述べる説明、であった。特に、意図的な行為intentional actionにおいて理由と原因の差異が問われている、と言ってよいだろう。その点で「行為の反因果説」の流れの先駆者として位置付けられることは自然とも言える。

前回のA氏の場合を考えてみれば、遅刻は(多分)A氏自らが意図したことではなかった。その「理由」(駅前通りの渋滞)が「原因」でもある、ということは、「遅刻」という行為の非‐意図性と関連があるように思われる。それに対し、ウィトゲンシュタインに従えば、意図的行為においては、その「理由」は「原因」とは区別されることになるだろう。

 

ただしここで早まって、意図的行為⇒理由、非意図的行為⇒原因と、単純に割り切ってはならない。

普通、行為の反因果説の代表とされるアンスコムが強調しているように、意図的・自発的な行為の場合でも、「原因」でもあるような「理由」を述べたり、「理由」か「原因」か はっきり区別できない説明を与えたりすることが可能な場合が少なくない。(cf.  Intention, §5, §9, §15)

また、「意図的行為」という概念自体、自明のものではない。「意図的行為」という概念は、類似した「自発的行為 voluntary action」の概念とともに、アンスコムが『インテンション』において為したような注意深い(あるいは面倒極まりない)解明を必要とするだろう。 

しかし、このような問題に深入りすると目指す議論の方に戻れなくなってしまう。

以下では、ウィトゲンシュタインの言葉を再構成することによって、彼の議論の大づかみな論旨を理解することで満足する。

 

3.

意図的な行為は、おおよそ様々な仕方で、規則・規範との関わりが問題にされうるような行為である。

(その事情の一端は以前に触れておいたが、解明を始めると終われなくなるので、大まかな見当のみで先に進む。)

そのような意図的行為の範例として、推論や計算を挙げることができるだろう。

われわれが現に思考する仕方で思考することに対して、その理由を与えることができるだろうか?そのためには答えを推論のゲームの外部に求めることが必要なのだろうか?
「理由 reason」という語には二つの意味がある。すなわち、理由 reason for と原因 cause である。両者はものごとの二つの異なった秩序である。
そこで、理由と原因を区別する前に、あることが理由であるための規準を決定しておく必要がある。
推論 reasoning とは実際に行われた計算であり、示された理由は、その計算において、ステップを一つ前へ遡るのである。理由は、ただそのゲームの内部においてのみ理由となる。
理由を与えるということは、一連の計算過程を辿ることであり、理由を求めることは、いかにしてその結果に到達したかを問うことである。

理由の連鎖には終わりがある。つまり、理由に対して更なる理由を与えることがいつも可能なわけではない。しかし、このことが推論の価値を減じるわけでもない。

なぜ君は怖がっているの?という問いに、原因で答えるなら、その答えは仮説 hypothesis を含んでいる。しかし、計算にはいかなる仮説的要素も含まれない。

(WLC1932-35, p4-5)

ここでは、「推論」という行為において、理由を問う / 与える ことについて話されている。理由を与えることが、2通りに描出されていることに注意しよう。すなわち、「直前のステップに立ち返ること」と「一連の計算過程を辿ること」。

また「理由」「計算」と対立するものとして、「原因」「仮説」に言及されている。

 

「理由を求めることは、どのような計算過程を経て、その結果に到達したかを問うこと」ーこれが、ウィトゲンシュタインの議論における主導的なメタファーの一つである。

 

さらに後年の講義録から。ここでも基本的な考え方は維持されている。

理由を与えることは、ある結果に君を導いた計算を示すことに似ている。(BBB, p15)

一つの事例は、自分が何かをしたことの理由を述べる場合である。「なぜ君はその線の下に6249と書いたのか」君は自分の行った掛け算を示す。「この掛け算をしたらその結果になりました」と。これはメカニズム mechanismを示すことに比較できる。それを、数を書き下した動機 motive を示すことと呼べるかもしれない。つまり、私がしかじかの推論過程を辿ったということである。ここでは「なぜ君はそうしたのか」は「どのようにして君はそれに達したのか」を意味する。君は理由を挙げる。自分の歩んだ道程を述べる。 (LCA,p21)

ここで「カニズム」「動機」という概念が登場することに注意。

もう一つの主導的メタファーである「メカニズム」については次回に触れる。