異なる技術をつなぐ

1.
同一性との関連で、定義について考える。

定義は、「・・・=。。。」、「。。。は・・・である」等の表現によってあらわされる。これは、同一性の表現と見ることができる。

 数学と論理学は、二つの異なった技術である。定義とは、単なる略記ではない。それは一つの技術から別の技術への移行であり、ある技術の、別の技術の中への投影である。定義は二つの異なった技術を結び付けるのだ。
・・・定義が二つの極めて異なる技術をつなぎ合わせるということを理解することが大変に重要なのだ。(WLFM p43)

 ここで、重要なのは、「二つの極めて異なる技術をつなぎ合わせる」ことである。
「類比」のもたらすはたらきで、極めて重要なのは、「異なる技術をつなぎ合わせる」ことなのである。

さらに「異なる技術をつなぎ合わせる」については、2つの相に着目することができる。
つまり、「異なる二つをつなぎ合わせること」と「技術」である。

2.
「異なる二つをつなぎ合わせること」について
ウィトゲンシュタインは、類比や同一視の中に存在する「差異」「ズレ」に着目する(数学や論理学の命題においてさえ)。

「仕方way」という語は「類比的analogous」という語に対応する。「類比的analogous」なものとは、再び全く同じものを意味するのではなく、何らかの別のものを意味するのだ。(WLC1932-35 p73)

「これはこれと同じだ!」-しばしば、われわれは「自ずから」(下の引用を参照)、そのように判断する。しかし、その場で意識されなくとも、その2つには類似性とともに差異、ズレがある。
実はそのズレこそが、判断の有用性(それは「技術」の効用である)を支える。ウィトゲンシュタインはそう考えていたように思われる。

 すべての者が、=の使用を学んでいる。そして、突然に、それを特異な仕方で用いる。彼らは言う:「これはロイド・ジョージだ」、だが、別の意味ではそこに何の類似もない。「表現的な同一性」とでも呼ぶようなもの。われわれは「同じもの」という言葉の使用を習っている。だが、そこに長さや重さ、あるいはそれに類した種類の類似性が存在しないところでも、突然に、自ずから、「同じもの」という言葉を使用する。(LCAPR p32)

 今詳しく触れることはできないが、自同律や類似した命題、例えば「p⊃p」「ライオンをライオンとして見る」等々に対するかれの極めて冷淡な態度に、それは関連しているだろう。

 人は言うかもしれない、「「同じ」が意味することは明白だ。-全く曖昧さが残る余地はない。われわれは「同じ」に対する完全に明瞭な範例を持っているのだ。」(ウィトゲンシュタインは、チョークを持ち上げて言う)「これはこれ自身に同じである。」(・・・)

「われわれは同一性の確かな範例を一つもっており、それはもののそれ自身との同一性である。」-重要なのはこの観念がわれわれをどこにも進めてくれないことだ。(WLFM p26-7)

だが待て!慣れ親しんだ(ライオンの)絵について、私は果たして本当にいちいち<私はそれをライオンとして見ている>と言うのか。誰かがそんなことを言うのをこれまで一度も聞いたことは無い。(LPPⅠ675 古田訳)

cf.PPF122,123

 ウィトゲンシュタインは、同一律A=Aを、「どのような状況でも成り立つ、アプリオリでゆるぎない真理」という観点からは見ない。むしろ、「言葉の空回り」(PI132)と見なすのである。

 「一つのものはそれ自体と同一である。」-無益な命題のこれほど美事な例はない。にもかかわらず、これは表象の遊戯と結びついている。(PI216 藤本訳)cf.TLP5.5303

 3.
「技術」について、ここでは詳しく触れられないが、ウィトゲンシュタインのテクストの要所要所で、我々はこの言葉(概念)に繰り返し出会うだろう。