「説明」の周辺(3):「メカニズム」の比喩

1.

 前回、ウィトゲンシュタインの「原因と理由の差異」を問う議論において、

「理由」が「計算」というメタファーによって把握されていることを見た。

一方。「原因」はどう捉えられているだろうか。

君の行為の原因はこれこれである、という命題は一つの仮説( hypothesis)である。
この仮説が十分根拠のあるものとされるのは、次の場合である。すなわち、君の行為が恒常的に特定の条件に続いて起こることを、多数の経験が一致して示した場合である。我々はその特定の条件をその行為の原因と呼ぶ。(BBB, p15)

 このように、理由と原因の差異を強調する場面では、因果関係は、恒常的連接の経験に基づけられるものとされている。つまり、よく知られたヒューム的な見解に立って、説明されている。

(※ウィトゲンシュタイン自身は、「原因」を、常にこのような見地からとらえようとしていたわけではない。可能なら、いずれそのことにも触れたい。)

そのような連接は、経験的なつながりであり、『論考』から中期までは、論理的なつながりからは徹底して峻別すべきものとされていた。

(以前、「数学の基礎」論の概観を試みた際に、そのことを確認した。)

 

経験的なつながりは「推測」されるものであり、そのようなつながりを述べる言葉は「仮説」である。それに対して、論理的なつながりは「帰結」の関係である。

なぜ君は怖がっているの?という問いに、原因で答えるなら、その答えは仮説 を含んでいる。しかし、計算にはいかなる仮説的要素も含まれない。(WLC1932-35, p5)

原因については知る(know)ことはできず、ただ推測する(conjecture)ことができる、と言えるのみである。(BBB, p15 )

例えば、ねじを調べて、その筋が崩れていない等が分かった時に、われわれは、どう扱えばそれがどう動くかはわかっている(know)と言う。その外観、触感が、それが動く仕方を示している、と。だが、外観からそれがそのように動くであろう(will)ことが帰結する(follow)わけではないのだ。なぜなら、例えば自分の万年筆と見えるものがあっても、それは実際にはキャップが動かない、といったことは想像できるから。われわれは、ねじとキャップを確かめて、それがこれこれに動くことを予測する。しかし、それがこれこれに動くであろう(will)ことは、仮説( hypothesis )、推測( conjecture )なのである。(WLC1932-35、p82 )

 このあたりは、『論考』の立場と共通している。よく知られた、論理的必然性のみを認める立場である。

太陽は明日も昇るだろうというのは一つの仮説である。すなわち、われわれは太陽が昇るかどうか、知っているわけではない。(TLP 6.36311, 野矢茂樹訳)

 

あるできごとが起こったために必然的に他のできごとが引き起こされるといった強制は存在しない。存在するのはただ、論理的必然性のみである。(TLP6.37, 野矢訳)

 

2.

しかしながら、原因ー結果という経験的つながり、前提ー帰結という論理的つながり、両者は「事象の辿る道筋」と言う点では類似している、と見ることが可能である。

ウィトゲンシュタイン両者をともに「メカニズム」(mechanism)に喩えていることは、その表れと言えるだろう。

「計算」が専ら「理由」に対して類比されるのと異なり、「メカニズム」は「理由」と「原因」の両方に類比可能である。

まず、経験的つながりとメカニズムの類比について、確認しよう。上の引用(WLC1932-35, p82)は次のように続いている。

どんなスタティックなテストによっても、つまり、メカニズムが実際に使用される前に行われるどんなテストによっても、そのメカニズムがある仕方で作動することを知ることはできない。それは常に仮説に留まる。特定の動きを予想して、当てが外れることは起こりうる。

(WLC1932-35、p82 )

次に、論理的つながりとメカニズムの類比の例。

一つの事例は、何かをしたことの理由を述べる場合である。「なぜ君はその線の下に6249と書いたのか」君は自分の行った掛け算を示す。「この掛け算をしたらその結果になりました」と。これはメカニズム を示すことに比較できる。それを、その数を書き下した動機 (motive )を示すことと呼べるかもしれない。つまり、私がしかじかの推論過程を辿ったということである。 (LCA,p21)

 

1934年の講義では、ウィトゲンシュタインの意図は主として両者(2種類のつながり)を区別することにあり、論理的つながりを「メカニズム」に類比すること が不適切であり、誤解を生み出す元であることを示そうとしていた。

語の意味を理解するなら、われわれはは自分の獲得する観念によって、その語を特定の仕方で使うようにさせられる。このような考えが我々を悩ませてきた。あたかも、観念自体が、のちに時間の中で展開されるその使用を含んでいるかのように。

私は、この考えの元をメカニズムの観念にまで遡ろうと試みた。

いかなる重要な意味でも、メカニズムの作用は、その様態(what it is)から帰結しはしない。われわれがすでにその作用(what it do)をその様態に含めているのでない限り、メカニズムの作用(what it will do)は、その様態から推察されることができるだけだ。

カニズムの作用はその様態から仮説的に導出できるのみであることを理解しないうちは、われわれは観念をメカニズムに類比しがちであった。しかし、そのような考えは捨て去らなければならない。

経験的命題に似ているように見える、メカニズムに関する命題、例えば、これこれの行為や使用が その観念に「一致する」、その観念から「帰結する」といった命題は、実際には経験的な命題に似ていはしない。というのも、それらの命題は規則なのであるから。

(WLC1932-35、p87)

しかし、彼が「メカニズム」について言ったことをたどれば、両者の共通性、一方から他方への転換、についてもイメージすることができるだろう。

言語使用における両者の差異とその帰結を確認すると同時に、両者が転換可能であることの象徴として、彼の「メカニズム」に関する発言を読んでいこう。

 

 3.

われわれは一般に、事象をメカニズムに喩えて考える。その効用は、事象が実際に起きる前に、その予言が可能となることだと言えよう。

多くの場合に、われわれはものごとをメカニズムに類比して考える。そのれがもたらすポイントは、次のことである。

すなわち、そのメカニズムの作動を実際にテストする前に、その見た目や、私がスタティックなテストと呼ぶもの(手で触れる、眺める、等)の実施によって、それがどう作動する(will behave)かについての判断を引き出すこと、である。

(WLC1932-35、p82 )

 「メカニズム」化のポイントは、事象の可能性を限定すること、である。

 複数の事象の結びつきの経験から、「メカニズム」を仮定することで、事象の移り行きが「推測」され、予言されるようになる。

それは事象の可能性を限定して考えることで可能になっている。

われわれは非常に少数の定まった可能性のもとで物事を考えることに慣れている。2つのシリンダーがあり、一方が他方よりも小さかったならば、われわれは、一方は他方の内で回転するだろうと言う。そしてもし回らなかったならば、われわれは、何かがそれを妨げているに違いない。と言う。つまり、非常に当惑して、その原因があるに違いない、と言うだろう。(・・・)でも、それは回らないのだと想定することはできないのだろうか?というのも、これは、一方が他方から論理的に帰結するという場合ではないのだから。それは推測なのだから。

ピストン棒に連結した車輪の図解を見るとき、われわれは、それがどう動くかについてある観念を抱く。われわれは、車輪がパン生地でできているとか、それが突然楕円形になるなどとは想定しない。 だが、こうしたことが起こらないとどうして知るのか。これに対して、われわれは車輪は剛体であり続けると想定する(assume)のだ、と答えるとしよう。では、それが剛体である、ということでわれわれは何を意味しているのだろうか。

(WLC1932-35、p82-83 )

 車輪とピストン棒の動きがかくかくである、という予想は、もとは「推測」の身分だが、われわれは一定のメカニズムと一定の動きとの結びつきに慣れているので、例えばその図解を見るだけで、そのように動くことは当然であると考えるようになる。

つまり、それが一定のメカニズムであれば、特定の動きが帰結followする、かのように考えてしまう。

だが、「帰結する」と実際にみなしてしまうなら、われわれはすでに、自然法則の領域から、シンボルの規則の領域へと踏み越えてしまっているのだ。

わたしは、われわれが二つの異なったもの、すなわち自然法則とわれわれ自身が定めた規則とを混同していることを指摘したい。ある鉄製のメカニズムが、特定の仕方でテストされるとき、しかじかの動きをするだろう、という言明は自然法則である。対して、あるメカニズムの図式に含まれる一本の線を動かせば角度が変わる、という言明は幾何学の言明であり、物理学の言明ではない。その線を動かすことの結果はわれわれが定めた規則に従うからである。すなわち、これらの規則はわれわれのシンボル体系の規則なのだから。(WLC1932-35、p83-84)

上で引用した文章をもう一度見てみよう。

いかなる重要な意味でも、メカニズムの作用は、その様態(what it is)から帰結しはしない。われわれがすでにその作用(what it do)をその様態に含めているのでない限り、メカニズムの作用(what it will do)は、その様態から推察されることができるだけだ。(WLC1932-35、p87)

 「われわれがすでにその作用(what it do)をその様態(what it is)に含めているのでない限り、メカニズムの作用(what it will do)は、その様態から推察されることができるだけだ。」

逆に「その作用(what it do)をその様態(what it is)に含める」ならば、メカニズムの作用は、単なる推測ではなくなる。

もし「かくかくに動かなかった」としたら、それが「剛体」ではないか、または妨害する別の原因があるはずだ、―そう考えるなら、いまや、ピストン棒と車輪が「剛体である」ことは「かくかくに動く」ことを帰結するだろう。―

もはや「剛体である」ことと「かくかくに動くこと」との結びつきは経験的ではない。

もしテストから導かれた結論が推測(conjecture)でない、とすれば、「これは剛体である」はそれがかくかくに動くということを含意しなければならない。すなわち、そのような場合、そのものが何であるか(what the thing is)はそれがなすことの集合(the class of things it does)である。(WLC1932-35、p83)

 「その作用(what it do)をその様態(what it is)に含める」、あるいは「そのものが何であるか(what the thing is)はそれがなすことの集合(the class of things it does)である」とみなすことは、事象の生み出す結果(what it do)を、その事象が何であるか(what it is)を決定する規準とすることを意味する。

このような構造は、以前考察した覚えがある。

 「操作と結果」、 「円環と概念」、「『論考』の射程」

『論考』における「対象と内的性質(TLP 4.123)」、「論理学では、過程と結果は同等である(TLP 6.1261)」、

「数学の基礎」論における「手段と結果の同一」(WLFM, p53)、など。

ウィトゲンシュタインは『数学の基礎』Ⅵで、このような構造を「円環 」(Zirkel, Kreis)と呼んだ。(cf. RFM Ⅵ 7, 8 )

そして、そのように把握された「剛体」のような「事象」を、ウィトゲンシュタインは、 『数学の基礎』で、特にⅥ、Ⅶ部を中心に、「概念」(Begriff) と呼んでいるように思われる。

「そうでなければならない」は次のことを示している、この結果が当の過程(Prozeß)にとって本質的なものとして承認されたこと を。(RFM Ⅵ7)

この「なければならない」は、彼が概念(Begriff)を採用したことを示す。
この「なければならない」は、彼が円環(Kreis)を回っていることを意味する。
彼は、この過程から、自然科学の命題を読み取ったのではない。そうでなく、概念規定(Begriffsbestimmumg)を引き出したのだ。
概念とは、ここでは方法を意味する。すなわち、その適用に対比されるものとしての方法を。(RFM Ⅵ8)

「概念」はその性質や、もたらす結果との間に論理的な「円環」を形成する。

 

(※ただし、後期のウィトゲンシュタインにおいて「概念」という言葉は、常にここで述べたような含みを持って使用されているわけではないだろう。それは「像 」(Bild)という概念が、さまざまな場所で、微妙に含みを変えながら使用され続けたことに似る。そのあたりの事情を論じるのは非常に大変なので、ここでは立ち入らない。)

 

 4.

1934年の講義録でのウィトゲンシュタインは、観念のメカニズムへの類比は、論理的結びつきを経験的結びつきと混同させるため不適切で有害だ、と言わんばかりである。

しかし、反対の地点から眺めれば、メカニズムへの慣れを通して、もとは経験的な概念(例えば「剛体」)が論理的な帰結(「かくかくに動かなければならない」)を持たされるようになる、すなわち経験的なつながりがやがて「規則」として扱われるようになる、という仕組みを、この類比に見ることが出来るはずだ。

25×25=625という命題の正当化は、もちろん、これこれの訓練をうけた人が通常の環境で25×25の掛け算をすれば625を得る、ということである。だが、その数学的命題は、そのことを主張しているわけではない。その命題は、いわば規則(Regel)へと硬化した経験的命題なのだ。それは、掛け算の結果が625である場合にのみ規則に従った、ということを約定しているのである。このようにして、その命題は経験によるチェックを免れ、経験を判断するための範例(Paradigma)の役割を果たすことになるのだ。(RFM Ⅵ 23、cf. RFM Ⅵ 22, Ⅶ 74)

 そのような視点が、ウィトゲンシュタインが晩年に向かうにつれて強くなっていったことは事実であろう。