持続と認識

1.

前回見た、「半過去の機能=属性付与」説、その論述には説得力がある。

しかし、それをこちらが「半過去の機能は、動詞の状態化である」と要約してしまえば、議論の常識的な出発点に戻っただけ、と言われるかもしれない。

というのも、imperfective aspect と「状態」概念の近しさは広く認められているし、当ブログにおいても、英語の進行相表現と状態記述との類似/差異は何か、という問いから出発して来たからである。

行為と状態(1)行為と状態(2)

 

「状態」については、以前不十分ながら触れたことがあったが、その内容は繰り返さない。

(その中で、認知文法での「状態」(あるいは”imperfective”)の特徴づけは、ここまででも考察の手掛かりとして使ってきたし、今後も使用してゆくだろう。)

 

そして、次のことを確認しておきたい。

われわれが行為の進行相表現と状態との類似/差異を問うとき、「状態」の概念もまた自明ならざる「不安定な」(cf. RPP Ⅰ 648)ものとして問い返すことを意図している。

 

2.

 春木は、前回紹介した論文に先立って、いくつかの半過去に関する論文を発表している。筆者が目を通したものを挙げると、

春木仁孝 (1991) : 「Je ne savais pas que c'était comme ça-再確認の半過去」

春木仁孝 (1999) : 「半過去の統一的理解を目指して」

( 前回紹介した論文は、

春木仁孝 (2000) 「J'ai rencontré un réfugié qui arrivait du Kosovo. ー半過去の属性付与機能についてー」)

 

まず、春木 (1991)は、Je t'attendais型の半過去について、

「いずれの例においても「(再)確認」confirmation という行為が行なわれている」(p78)と言い、

「この「(再)確認」という行為を表す言語上の印が半過去なのである」(p78)と主張する。(ここで「(再)確認」を行っているのは発話者である。)

 

一方、半過去全般については、次のように主張する。

先ず、現在という発話時点から時間的に遡った時間軸上のある点に視点が移動する。そして事行の内部においてその事行を捉えて言語化する。このように、半過去は常に発話空間とは別の認識空間を構成するが、無標の状況においてはそれは過去の空間の再構成である。(p82)

さらに次のように述べていることに注意する。

先ず過去としての半過去だが、過去のある時点に視点を移動して別の認識空間を構成してその空間内の事行を表すところから、結果的に、事行が状態や継続的な事態を表しているものとして提示される。(p82-3)

春木によれば、半過去で表された事象の状態性、継続(持続)性は、半過去が「認識空間」を構成することに起源、根拠を持つ、ということになろう。

 

春木 (1999)は、同様に、

「半過去の使用時には発話空間とは別の認識空間としての過去空間が構成されている」としつつ、次のように主張する。

半過去で何かの事態を述べる場合、発話者の視点は過去空間へと移動している。・・・

つまり、発話者の視点が過去に移動することによって自ずと過去空間が現出するということである。ここで重要なのは、この二つの操作、過去への視点の移動と過去空間の構成が不可分の関係にあるという点である。(p16, 強調は春木)

さらに、

しかし、発話者は現実には発話空間に居るわけだから、発話者はいわば発話空間に自分の影を残しつつ観察者としての自分を過去空間に移動させて語っていることになる。つまり、半過去使用時に構成されている過去空間は発話空間とは別の認識空間としてはっきりと区別されつつも、同時に発話空間と密接につながっているのである。(p16)

 過去空間の構成は、視点の移動とつながっている。その場合、発話者は「観察者」でもある。

しかし、ここで「視点」とは、文字通りの意味なのだろうか?そうでないとしたら、何であろうか?

 

春木(2000) でも、これらの主張が引き継がれ、冒頭に要約されている。

ただし、その後の展開では、専ら、半過去の属性付与機能が追及されている。

その末尾で主張されていることは検討に値しよう。

過去に持続していた行為を表す例においても、半過去はあくまでも継続・持続相である。英語の過去進行形と対応する場合でも、フランス語ではそれを進行相としては捉えていない。それは、半過去が基本的には属性付与を機能としているからである。進行相というのは、半過去とは逆に事態や属性を一時的なもの、可逆的なものとして捉えるアスペクトである。従って、状態動詞など属性付与的な述部でも進行相におかれることにより仮の状態、一時的な事態として表現されることになる。(p95)

これがもし正しければ、 英語の進行形の「限定された持続 limited duration を表す」という特徴が、フランス語の半過去には薄い、ということになるだろう。

 

3.

見てきた通り、春木の論は、「視点」という比喩(?)に大きく依存している。

「属性付与」は「状態化」することであるが、その状態性あるいは持続性 は、春木によれば、上に見たように(春木 (1991), p82-3)、「認識」の持続性に根をもつ、ことになろう。

 

「半過去の機能は、属性付与である。」

それを言い換えるなら、

「半過去は出来事(プロセス)を状態のように表現する」、

あるいは、

「半過去は出来事(プロセス)を持続するものとして表現する」、

ということになるだろう。

 

問題は、この「持続」が、「認識」とのつながりに由来するものなのか、ということである。

あるいは「観察」「注意」等との結びつきに由来するものであるのか。

 

同じ問いは、フランス語の半過去以外にも向けることができる。

imperfective aspect が表現する「持続」を、一般に、「認識との結びつき」に由来する、とすることは正しいのだろうか?

あるいは、観察、あるいは知覚、あるいは感覚、あるいは注意、に結びついたものと考えるべきなのか、そうでないのか?

(多分、進行相と習慣相・反復相等は分けて考えるべき、といわれるだろう。)

 

 (このような問いと、カントをはじめとするヨーロッパ近代哲学との関りについては、立ち入らない。)

 

 普段、われわれが事象の時間的持続について語るとき、それは必ずしも、観察や認識に結びついているわけではない。

確かに、われわれはimperfective aspect 、例えば英語の進行形を用いて、あたかも観察しているかのように物事を語ることができる。

しかし、人間どころか、生命も存在しない世界(例えば、始原の宇宙)の事象を、進行形を用いて語ることだってできるのである。

「観察したこととして語る」と「観察しているかのように語る」の違いに注意。)

 

われわれが持続的事象について語る仕方のすべてが、imperfective aspect を用いるわけではないことにも注意しよう。(「〇分間、~し続けた」など)

 

4.

アスペクトに関する説明の中で「観察」「認識」「視点」等の「比喩」が用いられる傾向の強力さ、

当ブログはそれを、飽きもしないかのように何度も確認してきた。

 

例えば、「視点」については、春木の議論の他にも、

「行為と状態(7):inside viewという比喩」

 「背景と視点」  など。

 

当然、こうも問わなければならない、

「そのような説明で持ち出されるのが、決まったように視覚であることに理由はあるのか?単に人間が生活する上で視覚体験の占める割合が大きいせいなのか?」と。

 

5.

以上の問いに代えて、次のように問いたい。

imperfective aspectに対して、「観察されているかのように」という特徴を持たない、「非観察的モデル」を考えることは可能であろうか?

「モデル」と言うよりも、むしろ「比喩」であるようなものを?

 

別の言い方で説明しよう。

われわれは、imperfective aspect での記述と、「観察の記述」を似たものとして比較(つまり類比)したがる傾向を持つ。

だが、imperfective aspect での記述に類比すべき、「観察の記述」とは別様の、言語的な「モデル」(「比喩」)を考えることができないだろうか?

 

ただし、その前に、ここまでの歩みを整理しておくことが必要だろう。