行為と状態(2):行為と時点、有界性と非有界性

1.

ここまで、 ウィトゲンシュタインの数学論、規則遵守論から、

動詞をimperfective aspectで使用することに絡む問題(imperfective paradox等)に目を移し、

さらにimperfective aspectとのつながりで、

「状態」、「持続」という概念 の問題へと展開してきた。

ウィトゲンシュタインにとっても、「状態」、「持続」がクリティカルな概念であったことは既に確認した。(「持続と状態」カテゴリーを参照。)

 

以前取り上げてそのままになっていた、

「誰それが・・・している」という、行為の進行相での表現が状態の記述に似たように扱われる、という問題 

に立ち返ってみよう。

※ここで「状態の記述」とよんでいるものは、典型的には、日本語の形容詞、形容動詞を述語とする文、英語のbe動詞+補語を述部とする文、等である。

 

その際、実際の言語における動詞の使用を題材にして議論を進めなければならないが、残念ながら筆者は言語学にも外国語にも疎い人間であり、もとより議論の精密さは期すべくもない。

しかし先ず、素人なりに、考察の前に最低限のことを確認しておこう。

 

・ここでは、

日本語の「(・・・し)ている」「(・・・し)ていた」形、

英語の現在(過去)進行形、

フランス語の半過去を考察の題材とする。

(ただし、英語、フランス語に関する情報は、実生活からではなく文献から得たものに過ぎない。)

・しかし、これらの文法的形態の使用は、進行相に限定されているわけではない。

(例:「ている」「ていた」形は、動作の継続を表す使用だけでなく、動作の結果の存続を表現する使用をも持つ。英語の進行形には近未来・予定、フランス語の半過去にも習慣相など、それぞれ多彩な用法がある。)

・これらの文法的形態の使用は、相互にずれなく一致してはいない。むしろ、大きく異なってもいる。

(たとえば、日本語の「ている」「ていた」形の 結果の存続を表す用法、英語の現在進行形の 近未来・予定を表す使用、フランス語の半過去の 間接話法での時制の一致の使用などは、他にない特徴である。)

・他の文法的形態が、進行相での使用を持っていることもある。

(例:フランス語やドイツ語の現在形。英語も、数百年前には単純形現在が進行相の使用をも担っていた。)

・したがって、必ずしも文法的形態が定まった使用を強いているわけではない。考察すべきは、あくまで(進行相での)「使用」である。

・以上の事実にもかかわらず、これらの文法的形態の進行相的使用は、比較的よくまとまった、興味深い使用特徴を持っている。まとめて考察の対象とするのは、それゆえである。

・考察に当たっては、細かな差異よりも大まかな類似を重視することになるが、その理由は、それぞれの言語の研究が目的ではないからである。最終的に目指されるのは、われわれが行為をimperfective aspectで表現することによって何をなすのか、それはperfective aspectでの表現の使用とどう異なっているのか、についての大まかな理解である。そして、進行相はimperfective aspectの一部に過ぎない。

 ・本来、何らかのコーパスを利用して、客観性のある物言いをすべきところであろうが、本当に残念ながら、その余裕はないことをことわっておきたい。

 

2.
では、行為の進行相での表現と、「状態の記述」との類似と差異について、注意を引く事実を(ほんの僅かであるが)挙げてみよう。

 

A.状態の記述との類似を示す事実

①動詞の単純形と、進行相の真理条件(あるいは主張可能条件)の違い。状態の記述の真理条件との類似。

(ある行為が途切れなく連続して行われる場合を考える。)
・「彼はオムレツを調理している。」は、動作が起動し終了する直前までのどの時点で発話されても真である。

これは事象の状態を現在時制で述べる文(例:「空が晴れている。」)が、当の状態が持続しているどの時点で発話されても真であることに類似する。

・ある時点を示す副詞句として「~時に」という語句を用いる、としよう。

「x時に、彼はオムレツを調理していた。」は、「x時」という時点が 動作が起動し終了する直前までの期間に含まれていれば、真である。

これは、「x時に、空が晴れていた。」が、空が晴れていた期間に「x時」が含まれていたなら、真となることに対応する。

 

・これに対し、「彼はオムレツを調理する。」「彼はオムレツを調理した。」の場合との違い。 次のような事実が、進行形との違いとして挙げられる。

まず、多くの場合、日本語の「する」形は今現在の事象を表現するのに使われない。英語の動作動詞の単純現在形の場合も同様である(上で注意したように、フランス語、ドイツ語の場合には異なる)。

また、「彼はオムレツを調理していた。」と「彼はオムレツを調理した。」の真理条件が食い違うことはimperfective paradoxが示している。

むろん、これらも重要である。

 

しかし、まず注意すべきは、「彼はオムレツを調理する」「彼はオムレツを調理した」が、幅のない時点については通常言われない、という事実である。

ヴェンドラーの分類で進行形が可能とされるactivity動詞、accomplishment動詞ともに、perfective aspectでは通常、幅のない時点について言われることはない。

(stative動詞、achievement動詞は時点について言われ得るが、通常進行形を持たない。)

「彼は、事件が起きた某日正午ちょうどに、走った」とは、起動相的意味(走り始めた)でなければ言わず、「彼は、事件が起きた某日正午ちょうどには、走っていた。」と言う。

また、「彼は、某日午後5時30分に家を建てた。」は、終結(建て終えた)か、起動(建て始めた)か、いずれかの意味でなければ言われない。もちろん、「彼は、某日午後5時30分に家を建てていた。」とは言える。

perfective aspectでは「彼は、1時間前、走った。」とか「彼は今月家を建てた。」のように、幅のある時刻≒期間について言われるのが通常である。しかし、「行為が行われた時間」の特定に関して、さまざまな問題が起こることについては以前見た。ここでは、これらの問題に深入りはしない。ただ、後の議論との関連で、進行形が「時点」について言われ得る、という事実に留意しておきたい。


②atelicな動詞、たとえば、walk, run等のactivity動詞は、動作が均質的なことにおいて状態との類似性を感じさせる。だが、そのperfectiveでの使用と、imperfectiveでの使用の差異は、次のような例に示されている。

She was pretty at that time,and she may still be pretty now. と言うことができる(状態の記述の場合)。

また、

She understood it well at that time,and she may still understand it now.も可能である(stative動詞の場合)。

しかし、

?She walked at that time,and she may still walk now. は不自然である(perfectiveの場合)。

walkというatelicな動詞でも、perfectiveに使用すると、動作の終結 が意識されるからだろう。

ところがこれに対して、

She was walking at that time,and she may still be walking now. (進行形の場合)と言うことができる。

 perfectiveの有界性boundedness、imperfectiveの非有界性unboundednessという、認知文法で強調される特徴が、このような使用の差異に現れている。

(続く)