a toy calculus of actions(1):進行形と微分演算子

1.

前回までKlein のテンス・アスペクト論を紹介する中で、

広義の<imperfective aspect>を特徴づける性格(の候補)として、

「描出されたsituation を、より大きな全体的situation の部分として提示する」

が浮上してきた。

(そのような性格は、一部の「叙想的テンス」の使用にも認めることができた。前回の最後を参照。)

進行相の場合に、更なる「比喩」の導入によって、この特徴付けを明確にすることが次の課題である。

 

新たな「比喩」の導入には、さまざまな狙いがある。

これまで、英語の進行形、フランス語の半過去や日本語のテイル形について、説明を要求されそうな、いくつかの現象を見てきた。

ひとつは、imperfective paradox

もうひとつは、いま論文は書いていないけれど、論文を書いている」の類のパラドックス

さらに、限定された持続を非‐有界的に表す」という特徴。

また、期間の長さを限定する副詞句と共起しにくい、という特徴。

もう少し、加えておこう。

一般に、進行形、半過去、テイル/テイタ形は、持続を表現する、とされる。しかし、これらに顕著な特徴は、

持続的な事象を幅のない、時点に関しても述べることができる、ということである。(「年が明ける午前0時の瞬間には、私は暗い海岸を走っていた。」のように)

時点に関して言われることが、どのようにして、持続の表現であるのだろうか? という素朴な疑問。

⑥英語の状態動詞stative verbには通常、進行形での使用がない。それはなぜか?

⑦上と逆の問題:状態動詞の進行形という「派生的な」使用は、どのような条件下で可能となるのか?

 

一見、説明が難しく感じられるこれらの現象を、この「比喩」の下で見直すこと、それが一つの目標である。

例えば⑤について。

(この問題は既に" Topic time とテンス・アスペクト(14) " で、「瞬間における運動の記述」の問題として、似た形で取り上げた。)

進行相での言明を、situationを映して記録した動画に類比することは、一見妥当と感じられる。その場合、ある時点に関する進行相の言明は、動画の一コマ(1フレーム)のみを切り出して提示することに喩えたくなる。だがそうした場合、切り離された、ただの一コマがどのように「持続」を表現するのか、が謎に見えてくる。(ここで、ゼノンの飛ぶ矢のパラドックスが思い起こされるだろう。)

しかし、そもそも、この類比の中に罠があるのではないか。

新たな「比喩」は、その罠からの解放を容易にするかもしれない。

冒頭のimperfective aspect の特徴付け、「描出されたsituation を、より大きな全体的situation の部分として提示する」が、この疑問への回答を示唆していることに注意しよう。

時点に関する進行相は、時に誤解されるように「時点に(実は)長さがある」ことを主張しているのではないだろう。時点が、より大きな time of situation の一部として提示されているから、そこに持続が表現されていると理解されるのではないか。

 

ただし、ここで重要な問いは次である:期間や時点を「より大きな全体の一部として提示する」ことを可能にする表現の構造にはどのようなものがあるのか。それらを諸々の<imperfective aspect>の構造と見なすならば、その中で、進行相を特徴づける構造はどのようなものか?

このように、「持続を表現する」の意味は、改めてその内実を検討されるべきなのである。新たな「比喩」は、その役に立つことが期待されている。

 

その比喩(類比)自体は、これまで少なからぬ人々が思いついたであろう素朴なものである。当ブログの関心は、そのような比喩を「正しい解釈」として提示することにはない。あくまでも、進行相の使用という、われわれにとり重要な言語ゲームに、普通とは違った角度から光を当ててみるだけである。

さらに、この「比喩」には他の狙いもあるが、それは追々明らかにしてゆきたい。

 

2.

ある本の中で、英語の進行形に関して、次のような比喩が提示されていた。

進行形は、数学にたとえて言えば、ある点や図形に対する「接線」に似ている。ただし、その長さは具体的には示されないことが重要な特徴である。(溝越 彰、『時間と言語を考えるー「時制」とはなにかー』4.7.)

すなわち、進行形が「接線」に喩えられている。

「ある点や図形」で喩えられているものは、全体としてのsituation や行為であろう。

それを、「接線」は(その「接触部分」において)部分的に表すことになるだろう。

 つまり、「接線の長さ(接触部分の長さ)」は、進行形が直接に表す事象の期間の長さである。それは、進行形文のtopic time の広がりであろう。

しかし、それは「具体的には示されない」(これは上の④の特徴の言い換えとみなせるだろう)。溝越はまた、「接線の長さ」が、その時々の文脈や語用論的知識によって左右され、定まっていないことを指摘する。

たとえば、それは、果てしなく長くてもよいと言い、次の例文を示している。

The earth is revolving around the sun  at a rate of 365¼ days per revolutuion.

(地球は1回転につき365と4分の1日で太陽の回りを回っている。)

(溝越、4.7)

 逆に、それは接点であってもよい。すなわち、時点であってもよい。

たとえば、 I saw an accident when I was walking in the street.(通りを歩いていて事故を目撃した)では「接点」は一瞬だろう。(溝越、4.7)

 

では、「接線」の比喩が説得力を持つとしたら、それは進行形のどのような構造に対応しているからなのだろうか?

おそらく、進行形の"temporal frame"説が描くような図式が、この比喩の基礎にある。(cf. ”行為と状態(4)”

上の例文 "I saw an acccident when I was walking in the street."をとれば、

〈I walked in the street〉というsituation に、〈 I saw an accident 〉という別のsituation が、基準時time of referrenceにおいて接している。その「接触部分」においては、前者のsituation は、〈 I was walking ... 〉と、進行相で描出される。そして〈I walked...〉という全体的situation は基準時の前後に延長している、という風に。

接触部分」について、先の引用文では「一瞬だろう」と言われていたが、当然、場合場合によって、その長さは異なっているであろう。従って、「接触部分」が長い期間(「線」)である場合も、瞬間(「時点」)である場合もある。

 

ここで、「接触部分を、だんだん短くなるように、点に近づける」操作を思い浮かべてみよう。それは、進行相で述べられる期間(topic time)がだんだん短くなって、ついには時点になる場合に当るだろう。例えば、" While he wandered around the town, she was watching the movie." から "The moment he entered the street, she was watching the movie." へと。

それを、行為という「図形」と、それを切り取ったり、接触したりする「直線」との関係で表象してみたくなる。だが、これはまさに、教科書で示される 微分の図解を思い出させる。

高木貞治『解析概論』改訂第三版 p36より

 

あるいは、より素朴な、次のイメージを思い浮かべてみよう。

「横断歩道を渡る」行為の一瞬一瞬は「横断歩道を渡っている」で表現される。それら少しずつの変化の一つ一つが積み重なることで「横断歩道を渡」が成り立つ、と見ることができよう。このような<部分‐全体>関係は、積分を思い出させる。

 

例えば、これらの比喩から、人は進行形と微積分との類比に思い至るだろう。それは自然な動きに思える。

 

3.

実際にこの類比が、言語学においてどの程度シリアスに取り上げられてきたのか、筆者はほとんど知るところがない。眼にした範囲では、英語学において、長谷川存古『語用論と英語の進行形』がこの類比を展開している。

すなわち、進行形が静態表現であるという場合に、そこに示された静態は、決して動作そのものの持続の静態的表現なのではなくて、ある一時点においてその動作を静態化することによって、逆にその動作の生々躍動するdynamismが表現されているのである。・・・

 そしてこの関係は数学で我々になじみの深いものである。すなわち、グラフ(21)でf(t)として表されている運動に対して、時点 t₁ に視点を置いてその動きを静態としてとらえ、それによって逆に運動f(t) の動態を描き出すという働きをする進行形は、数学的に言えば、時点t₁ におけるf(t) の微係数f '(t₁)に他ならないのである。(長谷川、p15)

 率直に言って、筆者にはここで言われていることの理解は難しい。 

だが、進行形を微係数として見る、というアイデアには興味がある。

正確に言うなら、" be ...ing ", あるいは「テイル」を微分演算子のように見る、というアイデアに対して、興味がある。

ただし、そのアイデアのポテンシャルを明らかにするためには、何らかの方法が必要となるだろう。

 それを次回から考えてみたい。