行為と状態(1)

1.

前回までのまとめ

われわれは、自分の、他者の行為について、様々な名で呼び、語る。それらの名が表す行為の中には、行為の終点(≒目標)が、その行為の概念と「論理的に」結びついていて、なおかつ行為の開始から終点の実現まで時間的隔たりの存在するものがある(accomplishment verbで表される)。

それらの行為において、終点endの実在が、それぞれの行為の動詞の使用の規準として使われる仕方の厳格さには程度の差がある。それには、行為を取り巻く環境が大きく影響する。また、ある場面で厳格に適用し、他の場面では緩く、というような、一連の行為の場面での差というものも存在する。(このことがしばしばパラドックスとみなされたりする。)

規準となるendのヴァリエーションの幅にも程度の差がある。

例えば、一つの算術の結果は唯一つに決まる。ある芸術作品に対する判断では、さまざまな個人差が許容される。(言語ゲームの多様性)

色盲というものが存在し、それを確定する手段がある。正常と認められる人々が色彩について判定する場合、一般には、完全に一致することが通常である。そのことが色彩の判定という概念を特徴付ける。

このような一致は、ある感じの表出Gefühläußerungが本物か、偽りか、という問いに対しては、一般には存在しない。(PPF351, 352)

 2.

もう一度、accomplishment 動詞を、進行形で使用することに戻る。

「私は、42.195kmを走っているところだ」「彼は円を描いている」-われわれは自分や他人の進行中の動作、すなわち未だ目標に達していない動作について、このように語る。だが、未だ実現していない目標こそが、それらの動作がそう呼ばれるための規準であった。行為の途中に語ることは、本来規準をみたさないものについて、あたかも規準を満たすかのように語ること、それゆえ不合理なことのように感じられるかもしれない。(中期数学論のパラドクスと比較

また、accomplishment 動詞の表す行為は達成に時間を要するだけではない。先の例ではわかりにくいが、一般的に時間的には不均質な部分から成る(「家を建てる」「自画像を描く」等)。

それら不均質性にも関わらず、同じ一つの動作名で呼ばれること、そして上述した「不合理性」から、次のように考えようとする傾向が生じるかもしれない。

そのような、accomplishment 動詞の進行形での使用は、行為が要する時間の間持続する、一様な状態、具体的には行為主体の傾性(身体的であれ、心的であれ)を記述するのだ、と。

 ※一つの行為の名で呼ばれることが、一様であることを要求するかどうかは疑問だが、その問題は措く。

では、このような「状態」の存立や異同はどう判定されるのか。

もし、私がマラソン大会で途中棄権しても、「私は、42.195kmを走っているところだ」は妥当な発言であったのだから、行為の結果のみを、状態の規準として適用することができないのは明らかである。

一方、私の発言時のコンディションのみを規準にすることも不適当である。アナザーワールドで、私は発言時、現世界での私と正確に同じコンディションにあり同じ場所にある、ただし、この大会はハーフマラソンであって、私はその事実に気がつかないまま参加し、走り始めた、と仮定しよう。この世界では、「私は、42.195kmを走っているところだ」は「正しい主張」ではないであろう。(環境の影響。ただし、環境が整っていれば、私の状態がどうあろうと発言が正しくなるわけではない。)

結果の実現可能性の影響を無視することもまちがいであるし、前述したようにその影響の強さには程度の差がある。「正7角形の作図」も「正2角形の作図」も存在しないが、「僕は正7角形の作図を見出そうとしています」は(例えば、数学を学ぶ途中の学生の発言として)主張可能だろうが、「僕は正2角形の作図を見出そうとしています」は、まともな発言とは見なされない。

 

このような事実にもかかわらず、次のように言ってもよいだろう。

ある面で、「私は、42.195kmを走っているところだ」「彼は円を描いている」は、状態の記述と似たところがある(そして違いもある)、つまり似たように扱われる側面もある、と。