背景と視点

1.

ヴァインリヒの「前景Vordergrund/背景Hintergrund」という対立概念について簡単に見たので、「説明の半過去」のテーマに戻ろう。

 「説明の半過去」とは、Le Bidois et Le Bidois (1935, t.1, p.434,§.730) の用語であり、つぎの例のように、半過去で示された事態が、文脈上、他の事態に対する事情や理由の説明になっている用法である。

(45) Il sursauta: la porte s'ouvrait.

(Vercors, cité dans 朝倉・木下2002,p.257)

彼は(おどろいて)とび上がった。とびらが開いたのだ

この例において、半過去におかれている「とびらが開いた」という事態そのものは、「彼がとび上がった」という事態とおなじく、全体的(総覧的)アスペクトでとらえられるはずであり、それが叙事的アスペクトの次元である。
しかし一方で、「とびらが開いた」という事態は、この場合、「彼が飛び上がった」という、物語の前景をなすできごとに対する事情説明や理由であることから、背景(arrière-plan)としてとらえられることになる。

(渡邊淳也、叙想的時制と叙想的アスペクト、p214)

 では、なぜ、「背景」には半過去、なのか?というのが、保留しておいた問いかけであった。(ヴァインリヒのごとく半過去‐背景の結びつきを当然視はしない、として話を進める。)

 

渡邊は次のように答える。

背景というものは、それ自体を直視するものではなく、おもな筋をみてゆくなかで自然に目に入ってくるような性質のものであるので、ぞの全貌を視野におさめるのではなく、入射的視点によってみるものである。したがって入射的アスペクトをあらわす半過去が使用されるのである。

 (前掲論文、p214)

 ここに出てくる「入射的視点」「入射的アスペクト」とは何か。

 

渡邊は上の文章に先立って、次のように、I.Novakovaによるアスペクトの図式化(Novakova, Sémantique du futur)を紹介している。

Novakovaは、全体的アスペクト、未完了アスペクト、完了アスペクト、の3つを区別する。全体的アスペクトはフランス語では単純過去、未完了アスペクトは半過去、完了アスペクトは複合過去がその例となる。

彼女のアスペクト論の特徴は、事態そのものの 時区間としての様態だけでなく、事態の時区間のどこに注目しているか、という「視点の時区間」にも注意するところである。

全体的アスペクトと完了アスペクトは、前者が視点の時区間が事態の時区間と完全に一致すること(総覧的視点 vision synoptique)によって特徴づけられるのに対し、後者は事態の時区間の終点の外部に後続する結果状態に視点がおかれること(回顧的視点 vision rétrospective)によって特徴づけられる。

一方、未完了アスペクトは事態そのものの時区間が開区間であることのみならず、視点の時区間が事態の時区間の中途の一部しか対象にしていないことによって特徴づけられる。この視点の特徴が、「入射的視点 vision incidente」と呼ばれる。

 

渡邊の説明に戻る。

「背景というものは、それ自体を直視するものではなく、おもな筋をみてゆくなかで自然に目に入ってくるような性質のものであるので、ぞの全貌を視野におさめるのではなく、入射的視点によってみるものである。」

 

これは果たして十分に説得的だろうか。例えば、「自然に目に入ってくる」ことは「全貌を視野におさめ」ないことに必然的に結びつくだろうか?

 

2.

 だが、疑問はそれだけではない。ここで再び、以前と同様の問いが戻ってくる。

背景の描出に半過去(あるいはimperfective aspect)が使われる理由の説明に、特定の感覚、すなわち視覚の比喩(「視点」「直視」「視野」)が持ち出されるのは偶然なのだろうか?

 

Novakovaの議論のように、アスペクト論の根本に、「視点」のような、感覚への類比が持ち込まれる傾向については、以前に()何度も注意を喚起した。

実際、 'aspect' は、ラテン語の「見る」という動詞を語源に持つ。だが、その語源は、単なる過ぎ去った歴史ではなく、 'aspect' という概念を規定し続けているかのようだ。

 

他にも、

この「視点」を、例えば「注意」という概念で置き換えて説明すると、何がどう変わるのか?

(「注意」は特定の感覚時にのみ生じるものではない。思考や回想にも生じ得る。)

「感覚」と「注意」の時間的様態は何か、そこにどのような差異があるか?

等々、これまで何度も繰り返した数々の問いが再帰してくる。

※「感覚」「注意」のような心理的概念の時間的様態の問題が、ウィトゲンシュタイン探究Ⅱ』の主要テーマのひとつであったこと、さらにアスペクト知覚論のキーポイントであったことは、当ブログにおいてくり返し確認してきた。

 心理的概念のアスペクト

「気づく」と「見る」

状態としての「・・・として見る」

行為と状態(6)

 

3.

ここしばらく、半過去と、「説明」、「関連づけ」、「背景」等の概念との関連について探ってきた。

その関連は単純な形では現れない。これまでに見たわずかな例からも、次のようなことが理解された。

 

半過去は、確かに理由を示す関連づけにおいて、(接続詞や副詞等の助けなしでも)使用されることがある(「説明の半過去」)。しかし、理由を示す文が専ら半過去を使用する、というわけではない。

半過去による関連づけは、理由を示す形の他にも、あることと裏腹の状態を示す(対比する)場合もあれば、物事と同時にある環境を描出する場合もある。(そのような場合、接続詞や副詞とともに用いることで、叙述のつながり方が聞き手に理解しやすくなり、言葉遣いとして許容されるようになる。)

そのような関連づけは、また、「背景」を示すこと、とも言い換えることができそうである。ただし、ここでの「関連づけ」「背景」は非常に広い意味で使用されている。

ヴァインリヒは、(単純過去との対比において)「半過去は背景を描出する機能を担う」と主張した。

しかし、この主張には疑問も生じるし、それ以前にヴァインリヒの「前景/背景」という対比概念の定義は明瞭と言い難いものだった。

 ともかく、「説明」、「関連づけ」、「背景」、これらの概念と、半過去の使用との重なり合いとズレを正確に評価することは容易ではないことがわかった。

 

次のようなこともあった。ヴァインリヒの理論の紹介に先立って、次のような例文を取り上げ、

 山ノ上旅館ニ泊ッテイタ。夜中に地震ガアッテ、皆トビ起キタ。

「山ノ上旅館ニ泊ッテイタ」を、「夜中に地震ガアッテ、皆トビ起キタ」ことの「背景の描出」と呼んだ。

それを「背景の描出」と呼んだのは、ヴァインリヒの言っていることに基づいてではなく、筆者が、日本語「背景」の(筆者自身の)語感に基づいてそうしたのである。

そもそも「背景」という日本語の使用と、”Hintergrund"というドイツ語の使用とがどこまで類似し、どのように細部で異なっているのか、筆者はほとんど何も知らない。しかし、2つの語を似たものと見なして話を進めている。だから、議論自体が、大まかな類比に頼っている。

 

しかし、それはここまでの議論の全般に言えることである。

すなわち、ここまでの議論で「説明」、「関連づけ」、「背景」という概念は、いずれも厳密さ、明確さからは遠い使用をされている。

 

4.

 そのようにして、大雑把な議論をあえて行うのは、大雑把さゆえにできることもあるからである。 

とはいえ、imperfective aspect をキーワードにして、さまざまなトピックの間を ここまで歩んできた、その道程はひどく錯綜したものに見える。

 

 実のところ、議論の目的の一つは、imperfective aspectと説明との関係、というテーマにたどり着くことであった。

ただし、それを他の様々なトピック(例えば、叙想的テンス)に関連させて、広い幅を持ち、干渉しあう現象としてとらえることが必要であった。

 と同時に、それらの様々な言語使用において、状態性、非有界性などの性質がどのようにはたらいているのか、解明の手掛かりを準備する必要もあった。

 (残念ながら、これらの要請を上手にかなえることはできなかったが。)

ここまでの道程を一度整理しておく必要があるが、もう少し、半過去の使用の実例を見ておいた方がよいかもしれない。

 もちろん(前にも述べた通り)当ブログの関心が、諸言語そのものにはなく、我々の言語ゲームの有様にあることは 大前提であるが。