状態をめぐって

1.

前回、「誰それが・・・している」という、行為の進行(progressive)相での表現は、状態の記述に似たように扱われる、と書いた。

「状態性」とimperfective aspectとの関連は、よく指摘されてきた。

ただし、それだけでなく、「状態」という概念は、行為を扱う哲学や言語学において、理論の中の基礎的な位置に据えられていることが多いようである。

 

例えば、ヴェンドラーの動詞の4つの分類で、状態動詞static verbは重要な一角を占める。

Anthony Kennyの行為の動詞分類は、まず進行形の有無で分類する点でヴェンドラーのものと共通するが、進行形をとらない動詞を一括してstatic verbとし、それらはstateを表すとする。(Kenny,  Action,Emotion,and Will,p120~)。

そして進行形を持つ動詞は、さらにactivity verbとperformance verbに区分される(それぞれ、ヴェンドラーのactivity verb、accomplishment verbと重なる部分が大きいが、両者の分類の比較についてはここでは立ち入らない)。

次の見解に注意しよう。

performanceは、状態statesによって終点endにもたらされる(Performance are brought to an end by states.)。(ibid. p124)

今詳しく検討することはできないが、一般にperformance verbが表す行為は、ある状態の実現を自らの終点(目標)とする、と主張される。したがって、ケニーの場合(少なくともその点において)「状態」の概念は、動詞分類全体を支える重要な地位にあると考えられる。

 

 2.

認知文法では、動詞(句)のアスペクトは、まずperfectiveとimperfectiveに二分される。

認知文法において、perfective-imperfectiveの区別は、可算名詞-質量名詞の区別に類比される。区別の根底をなすのは、(内部の)heterogeneous-homogeneous、bounded-unbounded、replicability-expansibility(またはcontractibility)という諸対立である。それぞれの対立の後の項は、「状態」を特徴付ける性質ともみなせよう。「状態」概念とimperfectiveとの関連は、まず、このように示される。

 

さらにimperfectiveは状態stativeと動態dynamic(活動activity)に区分される。

動態は、反復iterativeと習慣habitualに分かれる。反復と異なって、習慣は状態性を帯びる。(ジョン・R・テイラー、瀬戸賢一、『認知文法のエッセンス』第11章)

「英語の進行形は、あるプロセスを「未完了(imperfective)化する」という一般的な効果を持つ」(ibid., p248)。ただし、「進行形は、確かにあるプロセスを未完了imperfectiveと解釈することを求めるが、進行形のプロファイルされないベースには、その状態が一時的であるという意味合いが含まれる。」(ibid. p252)。

このように、限定付きながら、行為の進行相での表現と、状態の表現の類似性が指摘される。

 

 3.

「状態」概念の基礎的な身分は、David R. Dowtyのアスペクト計算Aspect calculusにおいて より明らかである。

 そのアイデアは次の内容からなる。さまざまな種類の動詞の、異なったアスペクト的性質は、単一の同質的homogeneousな述語のクラスーすなわち状態述語stative predicatesーに加えて、3つか、4つの文-演算子operator、結合子connectiveを理論の基礎におくpostulatingことで説明可能になる。英語の状態動詞は、論理構造の上で、これらの状態述語に直接的に対応する。他方、他のカテゴリーの動詞は、一つないし複数の状態述語が、それら”アスペクト的”な結合子、演算子によって形成される複合文に埋め込まれてできる論理構造をもつことになる。(Dowty, Word Meaning and Montague Grammar, p71)

このように、「状態」概念を基礎に置こうとする理論上の動機について、Dowtyは次のように率直な仕方で語っている。

すなわち、この仮説は、本質的には、動詞のアスペクト分類を還元主義的に分析しようとするものである。その目標は、種々の動詞の困惑するほど多様なあり方を、アスペクト的に単純かつ無問題な種類の動詞ー状態動詞the stativesーと 明確に解釈された演算子との組み合わせで説明することである。それが成功するか否かは、諸演算子の形式的解釈に依存するだけでなく、状態動詞は明確に理解され、問題がない、という仮定にも依存する。実際に、状態述語の概念は、直観的に明確なものとなるだろう。(ibid.,p71)

つまり、「状態(述語)」の概念を基礎に置くのは、それが明確で問題がないから、と言うのである。

 

 4.

ところが、すでに見たように、「状態」に対するウィトゲンシュタインの見方はそれと鋭く対立する。

体験Erlebnisの概念。それは出来事Geschehenとか過程Vorgangとか状態Zustandとか何かあるものEtwaとか事実Tatsacheとか記述Beschreibungとか報告Berichtとかいったものの概念に似ている。ここでわれわれは、いかなる特定の方法や特定の言語ゲームよりも深いところで、堅固な究極の基礎の上に立っているつもりなのだ。ところがこれらのきわめて普遍的な言葉は、また同時にきわめて漠然とした意味をもつ言葉でもある。これらの言葉は、実際には無数の特殊な事例にかかわっている。しかし、そのことは、これらの言葉をより堅固なものにするわけではなく、むしろより不安定なものにするのである。(RPP Ⅰ 648 佐藤徹郎訳) 

 彼によれば、「状態」という、一般的な概念は「無数の特殊な事例にかかわる」がゆえに、非常に「不安定な」概念なのである。

それゆえ、彼はさまざまな場面で、この「状態」という概念にかかわる考察を繰返した。(そのような考察は、しばしば同時に「持続」という概念にも関わっていた。)

これらの考察のいくつかは、以前にも引用した。

例えば、

『茶色本』BBBp117, 143

『探究Ⅱ』PPF248,250

『心理学の哲学Ⅰ』RPPⅠ 61, 126, 832

『心理学の哲学Ⅱ』RPPⅡ 43,45,178,274

『断片』Z78

これまで度々注意してきたように、「状態」の概念(に対する問い)は、ウィトゲンシュタインの考察の少なからぬ場面で、crucialな役割を果たしている。

(例えば、「気づく」と「見る」状態としての「・・・として見る」を参照)

 

特に銘記しておきたいことが次に記されている。

 ただ、「見るという状態」がここでどういうことを意味しているのか、自分ははじめから知っているのだ、などと考えるな!慣用を介して意味を自分に教えよ。(PPF250 藤本隆志訳)

すなわち、「状態」とはどのようなものか、決して自明視することなく、現実の言葉の使用から理解するよう努めよ、ということである。

とすれば、「行為の動詞のimperfectiveでの使用は、(いわば)行為を状態化する」という風に言うだけでは何も理解したことにならないだろう。

逆に、動詞のimperfectiveでの使用から、「状態」という概念のある側面を見出さなければならないのだ。