第四種動詞の周辺(7)

1.

西田光一「恒常的状態を表す日本語動詞の語用論的分析」の内容について見てゆく。

西田が挙げた例を再掲する。(p1.下線は西田による)

(1) 駒ケ岳<雫石町> 火口内には女岳の中央火口丘と爆発跡がみられる。火口壁の外側、男岳北方には阿弥陀池を挟んで寄生火山女目岳がそびえる。(地名)

(2) 千手観音坐像(峰定寺)久寿元年(1154)創建の峰定寺の本尊。...丸顔が円勢風をよく継いで、円信作の可能性のある西大寺十一面観音像に似る。(美術)

(3) スリランカの南西約700㎞に浮かぶモルディブ共和国。南北に約750㎞、東西約120㎞のエリアに26の環礁が浮かぶ。島は約1200もあり、世界屈指の美しいホワイトサンドビーチと極上の海に囲まれている。(現代)

(4) 青山~表参道を歩く ハチの墓は青山墓地にある。ここは、地名の由来でもある青山家屋敷の跡地。岡本綺堂尾崎紅葉国木田独歩斉藤茂吉、...吉田茂といった日本近代史に名を連ねる人々の墓が並ぶ。(東京)

(5) 菊池序光(生没年不詳) 江戸時代後期の装剣金工。菊池序克にまなび、のちに養子となって菊池家2代目をつぐ。柳川派の手彫りにすぐれる。江戸神田にすむ。本姓は中山。通称は伊右衛門。 (人名)

ここで挙げられた動詞の多くは変化動詞または第四種動詞に分類することができる。(3)「浮かぶ」、(4)「並ぶ」も、ここでは動作ではなく、「浮かんでいる」「並んでいる」という状態を表わしている。しかし、(1)から(4)は、ル形のままで現在の状態を表しており、非‐状態動詞の一般的な使用原則から外れている。また、(5)は、現在・未来形によって過去の状態が表されている点でイレギュラーな用法となっている。全体に、場所に関わる動詞が多いが、「似る」「すぐれる」のような例外もある。

(1)〜(4)の動詞は、テイル形に替えることが可能で、その場合も意味は変化しないように見える。西田は、これらの例におけるル形とテイル形とは、アスペクトとは別の対立をなす、と言う。西田は、このようなル形を恒常的状態を表す用法、または恒常性用法と呼んでいる(p2)。

 

西田は、奥田靖雄に倣って、(非-状態動詞の)ル形は発話時と同時に進行するアクチュアルな現在を表すことができない、とする(p4)。上の(1)〜(4)について言えば、いずれも現在時点を含んだ、持続的な「状態」について語っているのだから、本来テイル形が要求されるはずである。ル形が可能なのは、これらが「アクチュアルでない現在」を表すからだと言う。では、それはどのようなものか?

 

まず、話し手と聞き手とが発話の場を共有しているような現場では、このような用法は使用され難いこと、対してテイル形は許容されることを、西田は次のテストによって示している(p4)。

・文末に、ヨやネをつけて聞き手に確認を求めることが可能か

・丁寧体のマスがつけられるかどうか

県境に駒ケ岳が(そびえている / *そびえる)ヨ・ネ

県境に駒ケ岳が(そびえています/ *そびえます

このように、テイル形では両方とも可能であるが、ル形はいずれも許容されない。

 

※ちなみに、以前見た、ル形とテイル形で変わらない動詞については、テイル形もル形と同様に、これらの操作は許容される。

君の作風は以前の作風とここが(違う/ 違っている)ヨ・ネ

君の作風は以前の作風と色調が(違います/ 違っています)

従って、この種の動詞は、ここでの考察からは一旦外しておく。

 

西田は、次のように結論付ける。

終助詞や丁寧体の欠落は、この種のル形が対面する聞き手に向けて使われないことの反映である。(p5)

前回、ドキュメンタリーや解説動画のナレーションであれば、「...に~がそびえます」のような言いかたも許されるかもしれない、と注意した。それもまた、対面する聞き手に向けて使われてはいないことが影響していると考えられる。

これらル形の恒常性用法について、西田はまた、次のようにその使用の状況を描いている。

この文脈では、話し手(特に書き手)が当該状態について全ての知識を持ち、聞き手(特に読み手)は話し手の発話に接して初めてその状態を知ることになる。(p1-2)

すなわち、これらの用法は、次の2つの点で特徴づけられる。

①発話現場の非共有:対面的場面での使用ではない。あるいは、「はなしあいのテクスト」(工藤真由美)ではない

②話し手と聞き手における知識の非対称、そこから生じる役割

これに

③聞き手の不特定性

を加えてもよいかもしれない。

...恒常性のル形は面前の聞き手に向けて使われない。この種のル形は、話し手が聞き手に直示しない文脈に適するため、対話で使われることがなく、主に書きことばで、話し手が不特定多数の聞き手(特に読み手)を設定し、披歴的な解説をする文脈で使われる(p8)

西田の謂う「アクチュアルでない現在」は、以上から特徴づけられるであろう。

 

※やはり奥田に影響を受けた鈴木重幸は、「アクチュアルな現在」に対する「非アクチュアルな現在」を、次のように特徴づけている。

これは、動きや変化の現実の特定の一つの時間への関係づけが捨象または一般化されて、不特定、不定数の時間に関係づけられること、あるいはその可能性があることをあらわすものである。発言の瞬間にはその動きや変化は非アクチュアル、ポテンシャルである。非連続的に不定数くりかえされる動きや変化をあらわしたり、主体(対象)にポテンシャルに関係して、それを特徴づける動きや変化をあらわしたりする。(鈴木、「現代日本語の動詞のテンス」、p16)

 

2.

西田は、このような用法においては、アスペクトの制約の無化が起こっていると考える。つまり、テイル形もル形も同様の意味を表わしており、そこでは、ル形/テイル形によるアスペクト対立が無化されている、と。

では、なぜアスペクトの無化がここで起こるのか?

西田は、「話し手と聞き手が同じ時空間にいて同じ状況を直示的に指す発話の場面」を「対人コミュニケーションの文脈」と呼んだ上で、次のようなアスペクトに関する原則を提示する。(便宜的に、原則Aと呼んでおこう)

アスペクトは対人コミュニケーションの文脈において成立する時間表現である。そのため、聞き手の不在が保障された発話の場面では、アスペクト形式は無化するか、または非アスペクト的意味を表すのに転用される。(西田、p8)

上の例文は、いずれも聞き手の不在を前提として提示されているため、この原則に従って、アスペクトが無化され、通常、一定のアスペクト的な意味を示す語尾(「〜ている」)は、非アスペクト的な意味を表すのに転用されている。そのように西田は見做すのである。(この場合、テイル形は条件を選ばず使用可能で無標性、ル形は特定の前提のもとでのみ使用され有標性である(p2)。)

 

では、その「非アスペクト的な意味」とは何であろうか?

西田は、上の例文におけるル形は、聞き手にとっての新情報(Hearer-New)であることを示す役割をしている、と言う。そして、その機能を「ノダ」と比較する。(p6)

西田は田野村忠温の研究を参照して、ノダには聞き手の知らない、容易に知り得ないことがらを表現するのに使われる、と言う。

どうして休むの? 天気が{悪いんです / 悪いからです}。

2人の会話が同じ場所で行われる場合には、「悪いんです」は使いづらい。長距離電話のように、話し手のいる場所の天気が聞き手に分からない状況では「悪いんです」を理由の説明として使うことができる。

 

冒頭の諸例文に戻る。これらの文が、対人コミュニケーションの文脈で使われる場合には、アクチュアルな現在を含む「状態」を表すためにテイル形でなければならない。しかし、発話の場面から聞き手が不在となれば、アスペクト的意味が無化され、ル形も使用可能となる。そしてル形は新情報であることを示す役割をする。これが西田の捉え方である。

 

3.

西田論文は、さらに写真キャプションにおけるル形等のトピックに進んでゆくのだが、ここでこれまでの議論に感じる問題点を挙げておこう。もちろん、提起されたテーマの重要性には何ら疑いはない。

 

2.で記したように、西田は、冒頭の諸例文と、それらをテイル形に変えた文との間で、アスペクトの無化が起こっていると考える。

しかし、影山の研究に依って前回確認した通り、ル形とテイル形とでは、特定の時間的副詞句との共起等で違いが生じる。その事実は、アスペクト的性格の違いに通底すると、当ブログは考える。つまり、アスペクト的意味は無化されていない、と。(以前取り上げた、2種類の習慣相の問題によく似ている。これは後で取り上げる。)

さらに、西田の提示するアスペクトに関する原則Aは、過剰に強すぎると思われる。「聞き手の不在が保障された」の正確な規定は不明だが、例えば、ある人物の業績を顕彰する石碑に彫られた文章をそうとみなすなら、その中でperfective/imperfectiveの書き分けが機能しないとは考えづらい。

また、(5)の例文を見てみよう。

この文の「すぐれる」「すむ」を単純に「すぐれている」「すんでいる」に変えた文章は許容されない。テンスも変えて「すぐれていた」「すんでいた」としなければならない。

菊池序光(生没年不詳)...柳川派の手彫りに(*すぐれている/すぐれていた)。江戸神田に(*すんでいる/すんでいた)。

(5)は、過去の事実に関する文であるが、益岡の謂う「履歴属性」を表しているともみなせる。その意味で属性叙述文であり、西田の謂う「アクチュアルでない現在」に関する文だと言うことが可能であろう。しかし、(5)において単純にアスペクトが無化されていると言うことはできない。テンスとの絡みも視野に入れなければならないのである。

また、以前確認したように、第四種動詞のすべてが、書きことばにおいて、ル形での使用をもつわけではない。「経験の力も加わって、O選手の能力はずば抜けた」とは書きことばにおいても言われない。例の原則のみではこれらは説明できない。

最後に。西田は、問題のル形は、テイル形に対して有標性の表現として、聞き手にとっての新情報を示す役割をする、と言う。

しかし、そうした役割があるとしても、なぜル形なのだろうか?他の手段もあり得よう。(もちろん、ル形である必然性がないとしても、ル形の使用が不当となるわけではないが。)それを考えるためには、ル形のテンス、アスペクト機能について再考する必要があるだろう。