文法的命題、経験的命題

『探究Ⅱ』xiの冒頭(PFF111)で取り上げられる「2つの使用」について、

テクスト間を類比によって辿ることで、「アスペクト知覚論」と「数学の基礎」論に共通した根が存在することを確認しておいた。(「2つの使用」
すなわち、その「2つの使用」の区別の問題が「文法的使用」の問題につながっている、ということの確認である。

 

後期ウィトゲンシュタイン理解の要となる「文法」という概念。

いうまでもなく、この言葉を使わずにウィトゲンシュタインについて論じることは不可能である。簡明に言えば、その意味は、言語使用の有意味/無意味の境界にかかわる決まりごと、というようなところだろう。しかし、ウィトゲンシュタインがこの「文法」という概念を用いる仕方は、いかにも彼独特のものがあり、哲学一般においては、この言葉が彼の用いたような仕方で定着することはなかった。


「文法」という言葉は、『探究』の中では、詳しい説明も定義もないまま、徐々に、繰り返し出現する。それゆえ、十分な理解を求めるなら、『探究』以前の遺稿の中に、この「文法」という概念の発展の跡をたどってゆくことが必要となるだろう。
ここではその余裕はないので、「文法的命題」の概念について、ごく簡略に述べることから始める。

 

ケンブリッジ復帰後のウィトゲンシュタインは数学の命題や「必然的な真理を表す命題」を規則(規範)の表現としてとらえ、「文法的命題」あるいは「文法」と呼んだ。そのような命題の中で述べられている概念間の結びつきは「論理的」、「内的」な結びつきである、とした。

因果的・経験的な結合ではなく、それよりはるかに厳しく、堅固だとされる結合、一方がすでに何らかの仕方で他方である、というほど緊密な結合とは、つねに文法における結合である。(RFMⅠ128 中村秀吉・藤田晋吾訳)

内的関係とは、言わば、事象の本質に位置づけられるものである。内的関係は、決して2つの対象の間の関係ではない。それは、言うなれば、2つの概念の間の関係である。そして、数学的命題のように、2つの対象の内的関係を述べる命題は、対象を記述するのではなく、概念を構成するのである。(WLFM, p73)

彼の挙げる文法的命題(たとえば「白は黒より明るい(RFM Ⅰ 104)」「棒には長さがある(PI 251)」等)は、必ずしも「‘赤’は日本語である」や「‘棒’は名詞である」のような、「言葉に言及する命題」のスタイルをとっているわけではない。あるいは、必ずしも、「赤は色彩である」のような、「概念に関する命題」であることが容易に了解される種類のものではない。

 「20個のりんご+30個のりんご=50個のりんご」は、りんごに関する命題でないかもしれない。そうであるか否かは、その使用次第である。算術の命題でもありえる。-そしてその場合、れわれはそれを数に関する命題と呼ぶことができよう。(WLFM, p113)

事実、それが数に関する命題である場合も、りんごに関する命題である場合も、同じ命題なのであるが、ただ全く違った仕方で使われるのである。(WLFM, p114)

 文法的命題と経験的命題を分けるものは、結局のところ、それらに対する我々の使用、扱い方の違いなのである。

 ある命題を揺るがしがたく確実だとして承認するとは-私はいいたい-その命題を文法規則として使うことである。このことによって、その命題から不確実性が取り去られる。(RFMⅢ 39 中村・藤田訳)


ある命題について、<それは別様にある場合を想像できる>とか<その反対の場合を想像しうる>と語ることは、その命題に経験命題の役割を当てがうことである。(RFMⅣ 4 中村・藤田訳

 同じ字面からなる命題が、ある状況においては経験的命題として扱われ、別の状況においては文法的命題として扱われることがある。しかも、扱っている当人にそのことが意識されていないことは珍しくない。

2.

「文法」に類似した概念について。
晩年になると、「概念規定Begriffsbestimmung」という用語の使用が増えてくる。

例)PPF191, RPPⅡ609、LWⅠ673、RFMⅥ8、UG138

 

遡って、RFMⅢ37では、文法的命題‐経験的命題の対比に似た仕方で、「意味規定Sinnbestimmung」‐「意味使用Sinnverwendung」という言葉が使われていた。

私がいつもやっていることはー意味規定と意味使用の間のある相違を浮き彫りにすることーであるようにみえる。(RFMⅢ 37 中村・藤田訳)

また最晩年に「論理学Logik」という言葉が多用されるが、次の例では文法的命題に似た意味で使われている。

さまざまな命題がしばしば論理学と経験的知識の境界で使われ、その結果そうした境界を越えて命題の意味があれこれ変化し、あるときは規範の表現とみなされ、あるときは経験の表現とみなされる。
(というのも、経験命題から論理学の命題を区別するのは、やはり一つの心的随伴現象―人は「思想」をそのようなものだと思っているのだが―ではなく、その命題の使い方だからである。)(OCⅠ32 中村昇・瀬嶋貞徳訳  cf.OCⅢ19)

 最晩年にも、経験的命題と文法的命題の区別と移行というテーマが生きていること、そのポイントが使用の違いにあることがここで確認される。