動態動詞ル形の用法について(13)

1.

続いて、「見る」の可能態・自発態について見ておく。

「見る」経験は、受動的に経験者に生じることも、主体が意志的に行う場合もあり、日本語においても、そのような様態の差異が動詞「見る」の使用に反映されている。

a. 奈良へ行けば沢山の仏像が 見られる/*見える。

b. 私は、自分がどこかの寺院の廊下に倒れていることに気づいた。扉の開いた隙間から仏像が 見える/*見られる。

c. 奈良へ行けば沢山の仏像を 見ることができる/見られる。

まず、「見る」の可能態には、「見られる(見れる)」、「見える」の2形がある。「見ることができる」という迂言的な形式もよく用いられる。

これらは、ル形で現在の状態を表わす。受身との違いに注意(テイル形の可否など。cf. 2024-03-14)。

明日になれば、君は好奇の目で見られるぞ。(受身、未来)

すでに、私は、冷ややかな目で見られているのだよ。(受身、テイル形)

 

a.は、主体が意志的に仏像を鑑賞に行く状況であり、「見られる」が適切となる。

それに対し、b.は主体の意志的な関与なしに、受動的・自発的に視覚体験が生じる状況であり、「見える」が適当となる。「見ることができる」は多くの場合「見られる」と共通した状況で使用される(c.)。

「見る」の可能態に関する、典型的な使い分けは、このようなものである。

(ここでは、自発との区別の問題は一旦措く。また、経験者or動作主という、意味役割の問題には立ち入らない。)

 

主体があるものを意志的に見る場合、多くは、そのものが見える環境に主体が身を置くかどうかが、成否のカギとなる。

しかし、その場合、見ることが能力的に可能なことが前提となっている、と言えよう。

能力可能の表現には、一般には「見える」が使用される。

彼は、本当は目が見える/*見られる。

遠くの小さな灯台が[見える/*見られる]かい?

 

一般に、可能態としてのル形の使用では人称制限が無いことに注意しよう。

彼は、時間があるから、沢山の仏像が見られる。

cf. 彼は、時間があるから、いくつもの寺院を訪問できる。

しかし、自発や知覚表出としての使用では、(経験者格の)人称制限が発生する。

岬の端に灯台が見える。

私には、岬の端の灯台が見える。

君には、岬の端の灯台が見えるかい?

*君には、岬の端の灯台が見える。

君には、岬の端の灯台が見えるらしい。

*彼には、岬の端の灯台が見える。

彼には、岬の端の灯台が見えるようだ。

これは、感情形容詞や感情表出文と共通する(cf. 2023-12-27、山岡政紀「可能動詞の語彙と文法的特徴」p14)。

 

2.

先に、意志的な「見る」の成否は、主体が、そのものが見える環境に身を置くかどうかにかかっている、と言った。

「見る」の可能態文は、他の可能文と同様に、条件節を備えたものが多く存在する。先の文もそうであった。a.の条件節「奈良へ行けば」は主体の動作を表しており、全体の文は、主体の意志的な行動についての文とみなされよう。とすれば、主節の「見られる」も意志的な行為を表し、それゆえ「見える」が不適切となる、と考えたくなる。次の場合も同様である、と。

d. 奈良公園へ行けば、鹿が見られる/*見える。

しかし、意志的な行動による視覚体験に「見える」が用いられる場合は無数にある。

スカイツリーに登れば、富士山が見える/見られる。

もう少し先まで行けば、スカイツリーが見えますよ/見られますよ。

このような例では「見られる」「見える」共に可となる。

これらの行動では、条件が整えば、「扉を開ける」等の意志的な行為は必要なしに「見える」はずである、と言われよう。では、d.の場合にも、鹿は訪れる者の目に自然に入ってくるであろうに、なぜ「見える」が不適切となるのだろう?鹿が有情の存在であることが影響するのだろうか?

それでは、次の文はどうか。

今、この双眼鏡を覗いてもらえば、営巣するミサゴが見えますよ/見られますよ。

そのレンズをズームしてゆけば、シロクマがはっきりと見えますよ/見られますよ。

ミサゴやシロクマは、鹿と同様に、有情の存在である。これらの場合、「覗く」「ズームする」という、「見る」に直結する意志的な行為が必要であるのに、なぜ「見える」が可となるのだろうか?

あるいは、何が次のような使い分けを成立させているのだろうか?

e. 近頃、都会では、牛や馬の姿はめったに*見えない/見られない

f. さっきまでいた牛や馬が見えない/*見られない

(cf. 寺村秀夫『日本語のシンタクスと意味Ⅰ』p277)

このように、問題は思った以上に難しく見える。

 

一つの仮説は、条件節や条件的副詞句の内容(場所の限定等)が、視覚体験が生ずるための十分条件をなしている場合、「見える」が使用できる、いうものである。

日本へ行けば、富士山が*見える/見られる

東大寺では、大仏が*見える/見られる

三保の松原へ行けば、富士山が見える/見られる。

「日本に行く」だけでは、「東大寺」にいるだけでは、富士山や大仏が見えてくるわけではない。「日本」でも富士山が見られる場所は限られている。

それに対し、三保の松原では、大体どこでも富士山が目に入るから、「見える」が可となるのではないか。(もちろん、松林の陰に入ればダメだろう。このように、条件に幾ばくかの曖昧さは残るであろう。)

また、e.では、「都会」にいる(位置するの意味で)ことは、昔であっても、牛や馬を見られることの十分条件ではなかっただろう。見る対象(牛や馬)が、決まった位置にいるとは限らない存在であるからだ。奈良公園の鹿の場合も、似た状況であるように思われる。

それに対して、f.は、「ここに居る」ことが牛や馬を見ることの十分条件だと考えられるのに、実際には見えないことを述べた文である。

あるいは次の文では、見える対象が有情の存在、動く者であろうとも、決まった位置に行けば見えることが保証される。

公園の入口まで行けば、鹿たちが見えるよ。

cf. 公園の入口まで行けば、看板が見えるよ。

以上のように、一連の行動が意図的であるかどうかは、必ずしも「見える」の使用可否を決定しない、と言える。

「見る」対象の種類や、「見る」期間が、使い分けに影響する仕方には、まだまだ不明瞭なことが多いが、今はこれ以上の探求は控えておきたい。

また、「見る」の可能態、自発、受身。これらの区別や関係には曖昧さが付きまとうが、その明晰化についても、今は措いておく。

 

3.

「聞く」の2つの可能態「聞ける(聴ける)」「聞こえる」の関係は、「見られる」「見える」の関係にパラレルであるように見える。

その喫茶店に行けば、昔のレコードが、いい音で聴けるよ。

秋になれば、虫の鳴き声が聞こえる。

彼は、高い音が聞こえない。(能力可能)

この領域についても精確に検討するには時間と労力が必要なため、またの機会としておく。

 

4.

さて、テンス・アスペクト関係に加えて、知覚動詞「見る」「見える」の問題にたどり着けたことで、ようやく(!)「アスペクト知覚は、なぜウィトゲンシュタインにとって問題となるのか?」(cf. 2021-10-25 , 2022-02-11)という当ブログの問いに再び接近することができそうである。この問いへアプローチするために、テンス・アスペクト論、叙述類型論、構文論といった言語学的な知見を学びつつ、現実の言語使用(日本語に限られるが)を確認しながら、ここまで来たわけである。ただし、まだしばらく「動態動詞ル形の特殊用法」という枠組みの中で進んで行かなければならない。まだまだ、重要な言語学的問題は数多く残っているからである。