役割の転換

1.
言語ゲーム間の差異と類似というテーマに、一つの「像」のさまざまな使用というテーマを重ね合わせることができる。
一般に、言語ゲームにおける個々の言表は、平叙文、疑問文、命令等に分類されるが、また、それぞれの特定の「役割(はたらき)」Dienst ( cf.PPF23, 30, 82)-例えば、報告、定義、命令など-によって分類することもできよう。このように、言表の分類はさまざまな観点からなされ得る。

※(例によって)この「役割」それぞれの内容が明確に定義されず曖昧なまま、ウィトゲンシュタインの議論は進んでいくのだが、そのことの是非ともども、ここでは立ち入らずに話を進める。

※言表の「役割」の代わりに、言表の「性格」とも言えるだろう。


ここで取り上げるのは、ある言表が、複数の言語ゲームで、「役割」を変えながら用いられる、という事実である。しかも、「諸ゲームの間で」、すなわち、一連のゲームのなかで、役割を転換しながら。(RPPⅠ1054で転調の比喩が出されていたことに注意。)

なかでも、経験的命題と文法的命題との間の役割転換は、ウィトゲンシュタインが繰り返し取り上げた主題であった。

 私は、ある仮説を誤りとして拒否することとあるシンボル体系を実用的ではないとして拒否することとの間に違いがあることを指摘した。だが、双方の間には移行がある。ある仮説に従えば楕円を描くとされているある惑星が、実際にはそうでなかったとしてみよう。われわれはそのとき、その惑星に作用している未発見の別の惑星があるに違いない、と言うだろう。だが、われわれの軌道の法則が正しいのであり、ただそれに作用している惑星が見つかっていないだけなのだと言うか、あるいはわれわれの軌道の法則のほうがまちがっていると言うかは、任意である。ここにわれわれは仮説と文法規則との間の移行を見出す。(WLC1932-35、p69-70、野矢茂樹訳p182)

そして私は、さまざまな命題がしばしば論理学と経験的知識の境界で使われ、その結果そうした境界を越えて命題の意味があれこれ変化し、あるときは規範の表現とみなされ、あるときは経験の表現とみなされる、ということを認めてはならないのか?
というのも、経験命題から論理学の命題を区別するのは、やはり「思想」(一つの心的随伴現象)ではなく、その命題の使い方(つまりその命題をとりまいているもの)だからである。(OCⅢ19 中村昇・瀬嶋貞徳訳)

cf.RFMⅠ 85

 2.
往々にして、ある発言が、同時的に、あるいは事後的に、他人あるいは本人によって、別の役割をもったゲームの指し手として取り扱われる。

一例として、知覚の報告について。「私は、自分の家の前にライオンがいるのを見ている」という報告は、一方では、「ライオンが家の前にいる」という事態の報告として、また他方では、ライオンを家の前に見るという話者の視覚体験の報告として、扱われることが可能である。このような知覚の報告の二重性は、PPF xi節の議論において、重要な役割を果たす。

 見られているものの報告でもある当の表現は、ここでは認知の叫びになる。(PPF145 藤本隆志訳)

 あるいは、「私は、チャーチルが偉大な政治家であったと信じます。」という発言を考えてみよう。この発言は「チャーチルは偉大な政治家でした」という発言に等しい役割をすることもあり、発言者の心理状態やものの見方について教える機能を果たすこともある。これは、ムーアのパラドックスを扱ったPPF x節のテーマである。

また、PPF v節では、人の振る舞いについての言表と心理に関する言表との関係が問題にされている。

 「わたくしはかれが不機嫌だったのに気づいた。」これはふるまいについての報告か、それとも心の状態についての報告か。(「空が今にも降り出しそうに見える。」これは現在を問題にしているのか、それとも未来か。)その双方である。ただし、並置しているのでなく、一方を介して他方を。(PPF29,藤本訳)

 ここでも、問題は単なる二義性(「並置」)ではなく、相互転換(「一方を介して他方を」)であることが示唆されている。

 それは、ここでは、物理的対象と感覚印象の関係のようなものだ。われわれはここに2つの言語ゲームを持っており、それら相互の関係は複雑な種類のものなのである。-ひとがそれらの諸連関を単一の形式に当てはめようとするなら、道を誤っている。(PPF34,藤本訳 cf.RPPⅠ289)

 PPF ix節やxi節において取り上げられるものに、「叫びAusruf,Schrei」(あるいは「表出Äußerung」)と、「記述」(または「報告」)との対比と相互の転換がある。

 「私は・・・するつもりである」という発言はいかなる場合も記述ではない。しかし一定の状況のもとでは、そこからある記述を引き出すことができる。(RPPⅠ599 佐藤徹郎訳)

私の心の状態(例えば、恐れ)を記述すること、それを私はある特定のコンテクストにおいて行う。(ちょうど、ある特定の行為が実験であるのは、ある特定のコンテクストにおいてであるように。)
私が同じ表現を異なったゲームにおいて使用することは、そんなに驚くべきことなのだろうか?そして時に、いわば、諸ゲームの間で使用するということが?(PPF79)

だが、問題はこうだ:記述とは呼ぶことのできない、どんな記述よりも原始的な叫びが、それでもなお、心的存在の記述と同じ役割をするのである。(PPF82)

 このように見てくると、単なる多義性とは区別される、さまざまな言表の「役割転換」が、「心理学の哲学」において繰り返し問題にされているのがわかる。