行為と状態(4):進行相と基準時

1.

前回後半のまとめから入る。

状態の記述と、行為の進行相での記述との差異。

限定された期間を表す副詞句(たとえば 'for two hours' のような)との共起可能性について。
英語の場合、状態の記述については、
He was out of work at the time.
He was out of work for three months.
両方ともOKである。

それに対して行為の進行形の場合は、
He was sleeping at the time.
? He was sleeping for two hours.

と、許容度に差が生じる。(ただし、後の文の許容度は論者によって差があるようであり、後で述べるように、文脈 が補われれば許容されやすくなる。)

フランス語(半過去)の場合にも、同様の制約があった(英語の場合より厳格?)。
日本語(テイル、テイタ形)の場合、やや弱いが同じような制約があった。

 

要するに、状態の記述は、時間的に有界boundedな叙述も可能であるが、(英語の)進行形、(フランス語の)半過去の叙述は、時間的に非有界unboundedでなければ許容され難い傾向が存在する。

 

 2.

前回の最後、進行形、半過去、「ている」「ていた」形を用いた文は、<歴史>に位置づける表現 に対し、非常に「親和的」である、と書いた。この表現で言いたかったことは、英語学において、進行形のtemporal frame説によって説明されている。

進行相は、一般的に、特定の事象や時間を 「時間枠 temporal frame」で取り囲む、という効果を持つ、(・・・)つまり、時の流れの中に、ある基準点some reference point▲が存在し、動詞が表す時間的出来事は、その基準点から未来の方向ならびに過去の方向へと伸びているものとして捉えられるのである。現在進行形の場合、基準点は、通常「今」すなわち現在という時点に一致する。しかし、過去進行形の場合、状況を「投錨する」ために、現在とは別の何らかの定まった基準点が必要となる。そのような基準点はしばしば、副詞句や副詞節によって明示されている。

・・・

過去あるいは現在に関する語りのいずれにおいても、進行形はしばしば、非‐進行形で述べられた行為を取り巻く「時間枠」を形成する。

(Geoffry Leech, Meaning and the English Verb, 3rd edition, §32)

 

※「基準点 、基準時 point of referenceあるいはreference point」は、H. ライヘンバッハによって導入された概念(cf. Element of Symbolic Logic, §51)で、出来事時point of the event、発話時point of speechと3つ組をなす。

例えば、

 When we arrived she was making some fresh coffee.において、

われわれの到着という出来事(の時点)を、コーヒーをいれるという行為が「時間の枠」となって取り巻いている。ここでは、基準点は副詞節 'when we arrived' で表されている。

すなわち、前回、「<歴史>に位置づける表現」と呼んだものは、このような基準点を示す表現のことである。

(このように、'when 節(perfective)+主節(progressive).'という形式の文は、英語のみならず、日本語、フランス語においても、進行相を使用した叙述の代表的な形の一つとなっている。

本能寺の変が起きたとき、秀吉は毛利の勢力と戦っていた。」

「Quand je me suis réveillé ce matin, il neigeait. 私が今朝、目を覚ましたとき、雪が降っていた。」佐藤康、『しっかり学ぶフランス語文法』p184の例文より。)

 

特にフランス語学では、半過去の非自立性というテーマで、基準点の問題が意識されてきた。

フランス語の直説法半過去(以下IMP)は非自立的な時制であると言われる。たとえば(1a)のIMPは安定しないが、(1b),(1c)のように、過去のある時点を示す状況補語や単純過去(PS)など時間的限定を加える要素が入れば、IMPの使用は全く問題がなくなる。

 (1) a.?Marie buvait un café.

    マリーはコーヒーを飲んでいた。(Sthioul 1998:207)

         b.  Hier à huit heures, Marie buvait un café.

    昨日の8時、マリーはコーヒーを飲んでいた。(Ibid.)

         c.  Paul entra. Marie buvait un café.

    ポールが入ってきた。マリーはコーヒーを飲んでいた。                  (Ibid.)

(大久保伸子、「Je t'attendais型の半過去の表現特性と非自立性について」、p1。ただし、例文訳は引用者による付加。)

フランス語学において、(おそらく英語学よりも)進行相の非自立性の問題が意識されてきた理由は、半過去が過去の時制であることに関係する。

というのは、英語の現在進行形は、発話時が「今」という基準点となることによって、最初から自立性の欠如の問題を免れているように見えるのである。

ただし、過去進行形については、上の引用でLeechが言うように、(進行形が表す)状況を「投錨」する「時点」が必要となるだろう。

 

3.

しかし、基準点は「時点」である必要はない。

次のテクストは、基準点を「接点」に喩えて語っているが、

(30)a. From two to three I was  reading a magazine.

      b. From two to three I read a magazine.

                                                   (Declerck (1991:159))

Declerckによると、(30b)では3時には読書を終えたのに対して、(30a)の進行形では、3時以降も読書が続いていたかもしれないという含みがある。この場合は「2時から3時」という幅のある時間が進行形の「接点」(接触面)になっている・・・

  (溝越彰、『時間と言語を考えるー「時制」とはなにか』§4.7.)

 つまり、「基準点」は幅があってもよい。(ゆえに、今後は基準時と呼ぼう。)

あるいは、それは漠然としたものでもよい。

また、例えば以下のDucrotの例のように autrefois という副詞をつけるだけで定位が行われて発話が安定するという場合でも、 autrefois は単に過去のある時点ということを言っているだけであり、非常に漠然とした時間を指定しているだけである。

 (13) Autrefois la France s'appelait la Gaule. (Ducrot 1979, p9)

   かって、フランスはゴールと呼ばれた。

春木仁孝、「半過去の統一的理解を目指して」、p22  例文訳は引用者による付加。)

もう一つ重要なこと。上の引用で ' from two to three ' は、期間の長さを限定する副詞句でありながら、基準時を示す表現としても使われている。そして、上の引用のように、動詞のimperfective性を損なわないような形で理解されるならば、進行形との共起は許容される。

(つまり、「接点」の前後で行為が継続していることが可能、と理解されなければならない。)

同様に、「for two minutes2分の間」のような副詞句も、基準時の表現となるように文脈表現を補えば、進行形との共起は問題が少なくなるはずだ。次のように。

「君がトイレに行った2分の間、僕はテレビをじっと見ていた。」

※なおかつ、これらの言語の使用実態の間にはさまざまな差異が存在する。たとえば、フランス語では、' from ...to ... ' に相当する 'de...à...' は半過去と共起しないと言われる。筆者にはこれらの問題を追及するだけの知識もないので、これ以上は立ち入らない。

4. 

現実には、英語の進行形においても、フランス語の半過去においても、あるいは日本語の テイル・テイタ形でも、基準時が明示されずに進行相が使用されることは少なくないが、多くの場合に基準時は文脈的に明らかである。

 

しかし、はじめに注意しておいたように、英語の進行形、フランス語の半過去ともに、進行相という概念ではくくれない、様々な用法を持つ。

それらを別にしても、ここまで見てきたような単純なtemoporal frameの図式が当てはまらない進行相の使用は決して珍しくない。

(cf. Geoffry Leech, Meaning and the English Verb, 3rd edition, §33. フランス語については、大久保伸子、「フランス語の半過去の未完了性と非自立性について」が豊富な例を挙げている。)

 そのような事実を受けて、次のように主張されていることが注意を引く。

半過去に先行または後行する単純過去などがそこで果たしている役割は、今までよく言われてきたよう半過去で述べられた事行に対して時間的定位を与えることではなく、意味的充足、即ち意味的定位 repère sémantique を与えることである。

・・・

さらに言うならば、何等かの支えを必要としない単純過去や複合過去というのは、事態の成立・不成立を述べる時制であるが、半過去というのは(実際の現実世界における事態の成立・不成立に拘らず)事態の成立・不成立を問題にしない時制、断言 affirmation を行わない時制であるとも言える。

春木仁孝、「半過去の統一的理解を目指して」、p23)

ここで言われる「意味的定位 repère sémantique 」の内容は、今は検討しない。また、このような見方が英語の進行形、日本語のテイル・テイタ形にも適用可能かどうか、議論も分かれるだろうが、そこにも立ち入らず、今しばらく進んでゆこう。

 

5.

ここまで見てきた中で、筆者の脳裏に形成された、進行相に関するイメージは次のようなものである。

 

進行相が描き出すもの、それは日付の書き込まれていない、真偽不定の「像」である。それはさまざまな時点(時間)に関係付けて使用することができる。そのように関係付けること(いわば日付を書き込むこと)は、浮遊する「像」を、<歴史>に「投錨」して止めることである。時間的な副詞句(節)が、あるいは錨となり、あるいは日付を書き込むのである。または、そのような関係付けは、浮動する、一定の傾きの直線を、ある曲線の一点(もしくは一定の区間)に接して固定することに似ている。しかし、この「像」に関して決定的に重要なことは、接線のように、接点の前後に広がり(時間的な)をもっていることである。この「像」が時間的にunboundedなもの、持続するものとして使われること、が本質的である。それは持続をboundedなものとして提示することからは区別されなければならない。・・・

 

では、このようなイメージはどこまで実態に即しているのか?