a toy calculus of actions(10):変化率≠部分

1.

前回予告したように、進行相の特徴のいくつか(cf. "a toy calculus(6)")について、微積分へ類比する観点から眺めてみよう。

まず注目したいのは、

④「期間を限定する副詞句と共起しにくい」

という特徴である。

一般に「期間を限定する副詞句」と呼べるものは様々であるが、

ここで問題とするのは特に、

英語ならば、 "for two minutes"のように"for"で始まって、具体的に行為の期間を限定するもの、である。

 

次の例文を見よう。

〇 1) This morning, she prayed to God for two minutes.

? 2) This morning, she was praying to God for two minutes.

〇 3) In this morning, from 7 to 8, he was walking around the park.

(?はこのような文の使用が不自然で容認しがたいこと、〇はそうでないことを表す。)

 

日本語の場合にも、類似の現象が認められる。

〇 4) 明日の日中は数時間、雨が降でしょう。

? 5) 明日の日中は数時間、雨が降っているでしょう。

〇 6) 明日、 君が出かける7時から8時の間は、雨が降っているだろう。

 

興味深いのは、"from 7 to 8", "7時から8時の間は”のような期間限定の副詞句は、進行形と共起できることである。

(実際は、以上に見た文に対する許容度は人によって差が認められるが、今はその事を問題とせず話を進める。個人的には、一般的に2)よりも5)の方が許容される割合が高そうな気がする。)

 

※フランス語の半過去にも、同じ性質がある(cf. 井元秀剛、『中級フランス語 時制の謎を解く』p14)。ただし、フランス語の半過去を、英語、日本語の進行相とひとくくりにすることには問題が残るので、ここでは例に挙げない。この問題はいずれ触れたい。

 

2.

このように許容度に差が出る理由は、Kleinによるimperfective aspectの規定によって説明できるように見える。

1),2)の "This morning,...for two minutes" や4),5)の ”明日の日中は数時間” は、一見、それぞれの文のTopic time(TT)のようだが、そうではない。Topic timeは、それぞれ、"This morning"、”明日の日中は” であり、"for two minutes" や "数時間" は、Topic time に現れるsituation を限定する副詞句である。(すなわち、Time of situation(TSit)を限定する。)

そう考えれば、1),2),4),5) は、いずれも、「Topic timeがTime of situationを完全に含んでいる(TT⊃TSit)」ことになり、Kleinの定義ではperfective aspectに含まれる。

だが、これは、"be praying" や " 雨が降っている " のimperfective な性格と対立する。

 

それに対し、3)の "in this morning, from 7 to 8" 、6)の "7時から8時の間は" は、それぞれの文のtopic time であり、TT⊂TSit であるから、これらの文はimperfective aspect である。したがって、" be walking" や "雨が降っている" の使用が適合する。

この説明は、「topic time を決定する規準は何か」という問題を残すものの、上手く機能するように見える。

だが、次のような事実がある。

 

3.

進行相がよく類比される、状態動詞stative verbの場合を見てみよう。

英語の状態動詞の場合、for で始まる期間限定の副詞句とは共起可能であることが少なくない。(その場合、stage-level predicateであることが前提となるが。)

動詞句の例であるが、次のように。

7) This garantee is valid for one year.

8) Last year, he was out of work for three months.

8)は、2)と対照的である。つまり、"be out of work" は、期間限定の副詞句を伴って、perfectiveに使用されることが可能である。

つまり、2) の場合と同様に考えれば、8) のtopic time は "last year" であり、TT⊃TSit、すなわちperfectiveな文となっている。

従って、"be out of work " は、" be praying " とは、使用可能な条件において、基本的に異なっていると考えられよう。

 

状態動詞/動作動詞の対比は、よく質量名詞mass noun/可算名詞count nounの対比に類比される。質量名詞と可算名詞を区別する基本となる性質は、非有界性/有界性である。その質量名詞には、次のような、有界的使用が可能なものが多くある。

〇 9) This morning, she drank a cup of tee.

これを、2),9) に比較すること。すなわち、" a cup of" を、" for two minutes "等に類比してみること。

 

3.

以上から、状態動詞や質量名詞には、副詞句を伴って、perfective or 有界的な使用を許容する(ものが少なくない)のに対して、進行相の動詞はそうではない、という違いが分かるだろう。

その差異を、「微積分に類比する」視点から眺めてみよう。

 

進行相の文、例えば「彼は公園を歩いている」は、それが真となる期間の、部分をなすいずれの期間においても真となる、という性質(subinterval property)を持つ。

この性質は、状態動詞の文、例えば" He knows her name."においても同様に成り立つ。

形式的には、進行相の文と状態文は、いずれもsubinterval propertyと、それに結びついた論理的含意entailmentのパターンを有している。

(Carlota S. Smith, The parameter of Aspect, 4.3.3)

そして、そのような性質に類比されるのは、質量名詞が表す対象のcontractibilityである。

私がこの言葉(contractibility)で意味するのは、ただ次のことである。すなわち、そのタイプのものの集まりのどの部分も、そのタイプの正当な一例となること、である。例えば、湖のを例にとれば、取り出されたどの一部も、それ自身、として記述されるのだ。

(Langacker, Cognitive Grammar,  p141)

subinterval propertyは、いわば述語におけるcontractibility である。

 

だが、上の例からは、状態動詞や質量名詞の在り方と、進行相との違いが見えてくる。

状態動詞で表されるsituationは、各々time of situation を持つ。そのTSitの 部分に相当するsituationを切り出すこと、加えて、質量名詞が表す集まりから部分を切り出すことを想像してみよう。切り出される「部分」は、理念的にはいくらでも小さいものにできるが、どの「部分」も、全体が持っている基本的性質から外れることはない。それは、チーズの塊と欠片との関係に似る。従って、situation/集まり の全体を叙述するのと同様の仕方で「部分」を叙述することが可能である。

これらの場合、全体と部分とは同じ平面にある。それに対し、「微積分への類比」の下では、動作動詞の基本形と進行形とは、位階を異にするものとして捉えられる。両者の関係は、関数と導関数、あるいは関数値と変化率(微係数)の関係に比較される。

微積分への類比」は、これまで述べてきたように、<部分‐全体>という視点に関連して発想されたものである。しかし、事象の「変化率」は、事象の部分ではない。

ある期間における、事象の「変化率」の変動が記述されたとして、それは即、事象の記述 にはならないであろうし、事象の記述とは異なった使用を持つだろう。

同様に、動作動詞の基本形と進行形とは、(関数値と微係数のように)異なった「概念」を表し、異なった使用を持つ、と考えてみたい。

 

⑥「(英語の場合)状態動詞は、通常進行形をとらない」という特徴についても、「変化率」の比喩は説明の可能性を与える。状態動詞の表すstate は、時間を通して変化の無いものと捉えられる。そこで例えば、状態動詞の基本形を定値関数に類比してみることができよう。定値関数の微係数(変化率)は、いかなる関数でも0である。この類比に沿えば、状態動詞を変化率の観点から捉えることは、個々の動詞の特徴を掴むには無益と見なせよう。平面の描写の比喩を思い起こせば(cf. "a toy calculus(8)")、状態動詞は色彩が一様に広がる場合に喩えられた。そこでは一つの色サンプルが与えられれば十分であり、変化率を指定する必要はなかった。そのように、状態動詞をわざわざ進行相で叙述することは無用なのだ、と説明されよう。

③「限定された持続を、非有界的に表す」という特徴について。「限定の無い」持続は専ら状態動詞によって表される、と見なせば、状態動詞は進行形をとらないのだから、進行形で表されるものは限定のある持続である、という理屈が成り立つ。非有界性については、上で取り上げた。

 

4.

以上は 粗い比喩に頼った生硬で図式的な議論である。

それに対し、「われわれの構成した「言語」において、そこで<動作>と呼んだものは「変化率」よりも「部分」と言うべきだ」「英語の進行形が表示するものも、「変化率」というよりは「部分」に近いのでは」といった反論があるだろう。

しかし、ともかくも、「微積分への類比」は、このような考えを刺激する効果を持つといえよう。動詞の基本形と進行形との間に「位階の違い」を見ることも、微積分への類比のポイントの一つである。ここで重要なのは、違いが生み出す、使用の異なりである。「位階の違い」即ち、使用の違いである、と言ってもよい。

 

だが、日本語やフランス語における進行相について少しでも検討してみれば、上の図式に収まらない現象はいくつも見えてくる。

ただし、そのことは、このような類比の試みを無益にするとは考えない。

そもそも、当ブログが、「微積分への類比」を模索したのは、文法的アスペクトの伝統的な研究に纏わりついている「知覚のメタファー」から離れた、進行相のモデルを求めて、であった。それは、最初から「知覚のメタファー」を非本質的なものと見なしたからではなく、それから自由なモデルを構成することで「知覚のメタファー」の根拠を逆方向から問い直す、という意図があってのことだった。(cf. ”持続と認識”、”Topic time とテンス・アスペクト(17)”)

ゆえに、「微積分への類比」の図式に収まらない現象を見てゆくことは、非常な重要性を持っている。また、そこから、改めて「微積分への類比」について捉え直す機会も生まれてくるだろう。次回から、その方向に進んでゆきたい。