(前回から続く)
B.状態の記述との相違を示す事実
①一般に状態の記述は一様homogeneousな様態が持続ずることを表すが、動詞の進行相は必ずしも一様な様態の持続を表さない。
次の例を考えてみる。
「彼は一人でログハウスを建てている。」
あるときは、丸太をのこぎりで切る。またあるときは柱を立てる。別の時には屋根をふく。およそ「ログハウスを建てる」は一様な動作ではない。
また、
「私は二年前ログハウスを建てていた。一年前も建てていた。そしていまも建てている最中である。」この2年間、「私」は、食事、睡眠、入浴等、直接ログハウスの構築に携わっていない時間帯を、何百回となく持ったはずである。それにも関わらず、「私はこの二年間ずっと、ログハウスを建てていた。」は真である。
それゆえ、行為の進行形と状態の記述との類比を堅持しようとすれば、何か実際の行為の「背後」に、行為をその行為たらしめる、一貫して持続的に存在するもの(傾性や意図)を想定する、という立場が考えられるだろう。
( 例えば、柏端達也、1999、「行為と進行形表現」 にそのような発想に基づく進行形の意味論が展開されている。)
②英語の現在(過去)進行形とフランス語の半過去には、定まった 期間を表す副詞句、例えばfor two hours と共起しにくい、という注目すべき特徴がある。
(英語の完了進行形は、逆にそのような副詞と共起しやすいことにも注意。)
まず、状態の記述は、定まった 期間を表す副詞句によって限定され得る。
He was out of work for three months.
The traffic light was red for ten seconds.
状態の記述がすべて非有界的unboundedであるわけではない。ここでのout of workやredという状態は、時間的に有界boundedであり、perfectiveに叙述されているのだ。
認知文法では、動作のperfective/imperfectiveという対比を、可算名詞/質量名詞の対比にアナロジャイズするが、それに倣えば、
状態の記述がperfectiveである場合とは、
H₂Oという物質が通常waterという質量名詞で表される一方で、a cup of waterは可算名詞のように扱われ有界的である ことに喩えられるだろう。
これに対し、進行形の使用では、通常次のようには言わない。
John was singing for ten minutes.
この場合、次のように言う。
John sang for ten minutes.
これが、問題の特徴である。
例えば、下の2つは、一見同じ意味に思われる。
He was asleep.
He was sleeping.
しかし、次のように許容度に違いが現れる。
○He was asleep for two hours.
?He was sleeping for two hours.
フランス語でも次のようになる。
○Pendant trois ans, j'ai habité à Paris.(三年の間、私はパリで暮らした。)
*Pendant trois ans, j'habitais à Paris.
○J'ai préparé un examen en trois heures.(私は3時間、試験勉強した。)
*Je préparais un examen en trois heures.
先に述べた、状態のperfectiveな叙述に比すべきは、むしろcontinueを用いた文であろうか。
He continued singing for ten minutes.
進行形や半過去という叙述の仕方は、これとは何か根元の部分で異なったものがあるようだ。
ところで、日本語の「ている」「ていた」形の場合はどうか?
筆者個人には、英語、フランス語の場合よりも、はるかに許容性は高いように感じられる。
「私は2時間、テレビを視ている。」
「私は2時間、テレビを視ていた。」
ただし、このような文は、英語では(現在あるいは過去)完了進行形で表すべきだろう。または、continueを使うこともできよう。
I have been watching TV for two hours.
I had been watching TV for two hours.
I continued watching TV for two hours.
とすると、先の日本語文を現在(過去)進行形に比較するのは適当ではない。先に注意したように、完了進行形はこの種の副詞句に親和的である。
ある文献では、次のように指摘されており、英語、フランス語と共通した面が認められている。
「~続ける」とテイル形の違いは、「~続ける」がある動作や出来事が終わっていない(終結段階にない)ということを表すのに対し、テイル形は動作や出来事がある時点で行われている/起こっていることを表すという点にあります。(・・・)テイル形はある時点における出来事の継続を表すので、次の(3)aの「明日の今ごろ」のように時間を限定する表現とはいっしょに使いやすいですが、(3)bの「一日中」のように時間を限定しない表現といっしょに使うことは(やや)困難になります。
(3)a. 明日の今ごろは雨が降っているでしょう。
b.(?)明日は一日中雨が降っているでしょう。
(庵功雄 他、『初級を教える人のための日本語文法ハンドブック』、p59)
「一日中」は、期間を限定する一方、具体的・実在的な時刻を指定しない点で、‘for two hours’や‘pendant trois ans’に似ている。
ただし、「(やや)困難」とあるように、英語、フランス語の場合よりも許容度は高そうだ。その理由について、さまざまなことが考えられるであろうが、いまは立ち入らない。
さて、今軽く触れたが、引用した文の「時間を限定する表現」という言葉に注意したい。「明日の今ごろ」は、ここで言われている「時間を限定する表現」であるが、「一日中」はそうではない、とされていた。ここでの「時間を限定する」とはどういう意味であろうか?
おそらく、具体的な時間の流れの中に出来事を位置づける表現が「時間を限定する表現」と呼ばれていると思われる。ただし、具体的な時間の流れ、といっても、「明日の今ごろ」のような表現は、小説の中での場合のように、非現実の世界について言われる場合もあるはずだ。現実、非現実をひっくるめて、ここで言う「具体的な時間の流れの中に出来事を位置づける表現」を、「<歴史>に位置づける表現」、と呼んでみよう。
「西暦1945年8月に」、「ウィトゲンシュタインが生まれた日に」、等はもちろんそうであるが、「明日の今ごろ」、「ホームズがモリアーティとともに瀧に転落した日に」、「君が部屋に入ってきた時」、「夜が明け始めた頃」などなど、コンテクストが用意されていれば、どれもが<歴史>に位置づける表現 であり得るだろう。
それに対し、進行形や半過去、「ている」形と共起しにくい、‘for two hours’, ‘pendant trios ans’, 「一日中」等は、期間を限定する表現ではあるが、<歴史>に位置づける表現ではない、と言えるだろう。
ところで、前回、進行形は「時点」について言われ得る、と指摘した。もう少し丁寧に言えば、進行形、半過去、「ている」「ていた」形を用いた文は、時点を指定する表現とともに用いられ得る、ということである。だが、ここでの「時点」とは何か?それは<歴史>から切り離してとらえられた、瞬間(あるいは短い期間)、のことではなく、<歴史>に位置づけられた瞬間(短い期間)である。ここで言う「時点を指定する表現」とは、<歴史>に位置づける表現の一つに他ならない。
むしろ、進行形、半過去、「ている」「ていた」形を用いた文は、<歴史>に位置づける表現 に対し、いわば非常に「親和的」なのである。
(続く)