「説明」の周辺(44):「現在」に呼び出す

1.
“説明のアスペクトに向かって” 以来、フランス語の半過去の使用と「説明」とのつながりに目を向けてきた。

一方、日本語においては、パーフェクト相としてのテイル形と 「説明」、「理由づけ」 との結びつき も注目に値する。

 

 ※日本語の「テイル/テイタ」形と「タ」形、それぞれ一部の用法が「パーフェクト相」であるのか否かについては、対立する説があるが、ここではパーフェクト相であると見なし、話しを進める。

 

テイル形の基本的な用法には、動きの継続の状態を表す用法と、動きの結果の状態を表す用法がある(益岡・田窪『基礎日本語文法-改訂版-』p114)。

後者と関連して、動きが完了していることを表すこともある。

これをパーフェクト相的使用とよぶなら、その条件は、工藤真由美によると、次のようになる(工藤『アスペクト・テンス体系とテクスト』p99)。

①発話時点、出来事時点と区別される設定時点 がある。

②設定時点に対する出来事時点の先行。

③単に先行しているだけではなく、先行して起こった運動が設定時点とのむすびつき=関連性をもっている。

 

※工藤の云う「設定時点」とは、Reichenbachの云う‘point of reference ’であり、Maslowの定義における‘plane of sequence’にあたる。「出来事時点」が、‘point of the event’であり、‘plane of precedence’に相当する。

 

<結果の状態>用法とパーフェクト用法の違いは、次のような例に現れる。

結果継続の場合は、時間副詞は、結果継続時点を示す。従って、死んだのはもっと前のことである。しかしパーフェクトの場合は、死んだ時点そのものを示している。

・2時間程前、ここに犬が死んでいたんだよ。 <結果継続>

・私はあわてて帰郷した。しかし父は2時間前に死んでいた。 <パーフェクト>

(工藤、p101)

 

ただし、日本語においてパーフェクト相を表す形式には、テイル/テイタ形だけでなく、タ形もある。

タ形が表せるパーフェクト相は、現在パーフェクト(設定時点が現在であるパーフェクト)のみであるのに対し、テイル形は、過去、現在、未来パーフェクトを表すことができる。

タ形の現在パーフェクトと テイル形の現在パーフェクトとの違いについて、工藤は次のことを指摘する。

(1) シテイルは出来事時点を示す形式とむすびつくが、シタは普通むすびつきえない。

(2) シテイルでは、過去の出来事を現在と関わらせるにあたって、<論理性=解説性>を前面にだすことがあるが、シタはそうはならない。シタは日常会話で使われ、シテイルは、論述的な会話、文章にあらわれる。(工藤、p142)

ここで言われている、「テイル形が、過去の出来事を現在と関わらせるにあたって、<論理性=解説性>を前面にだす」とはどのようなことか?これが今回の主題である。

 

2.

工藤は、次のようにこれを解説する。

シテイルは、ごく普通の日常会話でも使われるが、次のa, b のような場面=文脈で使われることが特徴的である。

 

a. 話し手の現在の判断を根拠づける(話し手の判断の理由=推論の前提となる)過去の出来事をさしだす場合。

・足利の叔父は昨年死亡しております。暁子が足利に行く理由はありません。(爪)

・検察官の質問は推測を言うだけのもので、不適当であります。証人はすでに聞いたことはないと答えています。 (事件)

(他の例文は省略)

 

b. 「なぜか」「真実かどうか」など、話し手が現在問題とし、聞き手に説明、解答を求めている過去の出来事である場合。

・ところが証人は今年の4月、本犯罪の2か月前、厚木から長後町へひっこしている。なぜですか。(事件)

・それではききますが、今年の2月7日に梶原君は西鉄の定期券を買っているんですがね。あなたはそんなことを聞いたことがありませんか。 (時間の習俗)

(以下の例文は省略)

 

 a の場合に典型的であるように、シテイルが使われる場合、2つの文の間に、<根拠(前提)-判断(推論)>の論理的な構造ができあがってくる。シタが、日常会話での<記述的>パーフェクトとしてあるとすれば、シテイルは<論理的>パーフェクトとしてあるといえよう。

(工藤、p142-4, 原文の波線強調は省略。)

a, b をあわせてみるなら、テイル形は、根拠づける事象に対しても、根拠づけられる事象に対しても用いられることがわかる。

根拠づける事象も、根拠づけられる事象も、「テイル形」の使用によって、いわば(設定時点であり、発話時点でもある)「現在」に関連づけられ、呼び出される、そんな印象を受ける。

 

3.

この「印象」の背後について、少し考えてみよう。

なぜ(例えば)過去の出来事を「現在に呼び出す」のか?

 

根拠づけ(理由づけ)という行為は、自分一人で、「頭の中だけで」行って他人に示さないでいることもできる。しかし、その場合でも、根拠づけの内容は、客観性のある、他者に理解可能なものでなければならない。(そうでなければ、妄想と区別できないかもしれない。)

根拠づけ、理由づけは、間主観的に共有可能なものでなければならない。そして、他者にも受け入れられなければ、妥当な理由として認められることはない。

一般には、そのために根拠や理由は、他者に向かって提示され、注意を喚起されなければならない。(実際、上の引用で挙げられた例文は、裁判や尋問の場で、すなわち他者の面前で、使われれている。)

 

おそらく、問題となっている「現在」は、この提示の場なのだろう。いわば、共同注意の「現在」として、他者と共有される「現在」として、想定されるのだろう。

 

4.

 しかし、理由づける / 理由づけられる過去の出来事は、必ずパーフェクト相で叙述されねばならないわけではなく、通常はperfective相で叙述されてもかまわない。

その場合、出来事はperfective相というかたちで「現在」に呼び出される、とも言える。

事実、上の引用の例文を変更して、

「足利の叔父は昨年死亡しました。暁子が足利に行く理由はありません。」

「ところが証人は今年の4月、本犯罪の2か月前、厚木から長後町にひっこした。なぜですか。」

としても、何も差し支えはないだろう。

 

にもかかわらず、われわれが理由づけの場面で、しばしばパーフェクト相を好んで使用するとすれば、そのことをどうとらえるべきだろうか?

2つの「呼び出し方」の違いをどう見るか?

 

5.

 ウィトゲンシュタインが、アスペクトの閃きの表出に、共同注意を喚起し、合意を形成する機能を見ていたであろうことについては、既に取り上げた。(  “Wittgenstein intersection”“「説明」の周辺(15)”

有名な『探究Ⅱ』xi節の冒頭(PPF111)における「2つの使用」(の後者)も、そのような機能に関わるものであると考える(“2つの使用”)。

「いま、行進曲だ」のような発話も、これらの言語使用に類比可能であった。(“「説明」の周辺(40)”

これらに共通するものとして「体験の現在」を見ることができよう。

そしてこの「現在」は「注意を共有する現在」であったり、「感覚を共有する現在」であったりすることに注意しよう。