「説明」の周辺(15):「驚き」の行方(前)

1.

 前々回、ウィトゲンシュタインが、「意味」「感じ」「考える、期待する、願う等の行為」といった捉えがたい、「心的な」事象 を考察する際に、それらに関する「表現」をそれらの事象と同列に置いて考察するよう勧めているのを見た。

彼は、知覚的アスペクトについても、似たような考察姿勢を勧めていた。

すなわち、アスペクトの閃きの体験で発せられる声の調子、抑揚、身振り等の「表現」を、経験の本質的な部分と考えよ(BBB p182)、と。

 美学的対象の「表情」についても、「表情」に対する主体の反応、つまり身振りや顔による表現等を、対象の「表情」と同列に置いて考察することが推奨されていた。

 

しかし、考察のポイントは、それぞれの場合で異なっているように思われる。

美学的反応については今回は措いて、他のいくつかの例について見てみたい。 

 

2.

 まず、「予想(期待) Erwartung」「望み Wunsch」について。

私が五分たってからするだろうところのそのことを、いま欲することができる。欲するとは何と不思議なことがらなのか、と思う人があるかもしれない。

その出来事を私はどうして予想erwartenできるのか。それはまだまったく存在していないではないか。(PG90、山本信訳) 

望みは、何が自分を満たすのか、満たすのだろうか、をすでに知っているように見える! 命題や思考は、そうしたものがそこにはまったく存在していない場合ですら、何が自分を真とするのかを知っているように見える! まだそこに存在していないものがこのように決定されているというのは、どのようにして起きるのか?(PI 437, 鬼界彰夫訳)

 ここで提示されている疑問は、お馴染みの、志向性をめぐる問題(「事実でないことを考えることが可能」というパラドックス(PI 95))である。

ここで、予想の行為と予想の言語表現とを同列において考察することの眼目は、文法的状況の明確化にある。

そして「予想する」という語のこの使い方にとって、もっとも単純で典型的な例は次のことである。すなわち、pが起こることの予想とは、予想している当人が「私はpが起こるのを予想している」と言うことにある。だから、非常に多くの場合に関して、予想のかわりに予想の表現を置いてみることが、文法的な状況を解明するゆえんとなる。要するに、思考のかわりに思考の表現を置いてみることである。(PG92、山本訳)

 その「文法的な状況」とは、以前触れたように、

予想(期待)と それを満足させる事実には、同じ記述が「論理的に(すなわち、文法的に)」適合する、ということである(cf. Z54)。

これらすべての場合に特徴的なことは、予想されるものは、予想する行動から、定義を介して読みとられうるということである。何をわれわれは予想しているかについて、後になってからの経験が決定するわけではない。(PG92、山本訳)

「定義を介して・・・」とは、予想されるものと予想する行動(予想の表現もその一つ)との結びつきを、われわれが論理的な結びつきとして扱う、ということを意味している。

ウィトゲンシュタインは、これを

言語において、期待と成立が触れ合う。(PI 445, cf. PG92 )

と表現した。

そのような結びつきは、「命令」と「遵守」との間にもある。

「命令はその遵守を命じている」すると命令はその遵守を、それがそこに現れる前にすでに識っているのか。-だが、これは文法的な命題だったのであって、その言っていることは、ある命令が「これこれをなせ!」ということであれば、ひとは「これこれをなす」ことを命令の遵守と呼ぶ、ということなのである。(PI 458 藤本隆志訳)

これらの考察のポイントは、文法的なつながりの明確化にあった。

 

3.

文法的つながり(論理的つながり)は、次のような相で現れることもある。

「熟知の経験」「熟知の感じ」の ある一例に関して。

様々に異なった熟知familiarityの経験。

a) 誰かが私の部屋に入る。私はその人に長い間会っておらず、彼が来るのを予想もしていなかった。私は彼を見て、「ああ、君なのか」、と言う、あるいはそう感じる。

―この例を述べるのに、私は何故その人に長い間会っていないと言ったのか? 私は熟知の経験の記述をしようとしたのではないか。私が記述しようとした経験がどんなものであったにせよ、たとえその人に30分前に会っていた場合にも 私はその経験を持てるはずではないのか。(BBB, p181)

「熟知の経験」は、個人が自己の内部に感じる<感覚>の一種であり、「その人に長い間会っていなかった」等の外的状況とは独立に描出すべきものではないのか?

 ウィトゲンシュタインは、このような意見に抗して、「その人に長いこと会っていなかった」「その人が来ることを期待していなかった」等を、この熟知の経験の本質にかかわる描出として受け取るよう勧める。

 私は、認知の正しい状態situationを記述するという目的に対する手段として、その人を認知した際の環境circumstancesを述べたのだ。(BBB, p181)

 ここでの「熟知の経験(感じ)」で大切なのは、それが「状況に埋め込まれている」(cf. PI 581, RPPⅡ16)ことである。その「経験(感じ)」と「状況」とのつながりは本質的(論理的)なのである。

 

4.

では、アスペクトの閃きの場合を見てみよう。

 b) a)と同様で、ただ、その人の顔が私にすぐにはわからない。少しして、誰だか「私にわかってくる」。私は「ああ、君だったか」と言うが、a)の場合とは全く違った抑揚で言う。(声の調子、抑揚や身振りを、本質的でない随伴物とか単なるコミュニケーションの手段とは考えず、われわれの経験の本質的な部分であると考えよ)(BBB p182)

アスペクトの閃きは、しばしば驚きを伴う。

しかし、アスペクトの転換は、アスペクトの認識が呼び起さなかった驚きを呼び起こす。(PPF152 、鬼界訳)

それだけでなく、ウィトゲンシュタインは、アスペクトの閃きに、「驚き」が本質的に属しているのではないか、と問う。

すなわち、アスペクト転換にとって本質的なのは驚くということだ、と。そして、驚くとは考えることだ。

しかし、これは結局、アスペクト転換に対する私の解釈に過ぎないのではないか。(LPPⅠ565,566 古田徹也訳)

「驚き」に似た概念、「注意をひかれる」、‘auffallen’(注意を引く)。

 彼らが似ていることが私の注意を引き、そして、それは注意を引かなくなる。

数分の間だけそれは私の注意を引き、その後はもう注意を引かなくなる。(PPF 244、鬼界訳)

ウィトゲンシュタインの主張の一つの意味は、

「<驚き>や<注意を引かれること>の表現である、声の抑揚、顔の表情、身振り等を、アスペクトの閃きの体験の本質的な部分と考えよ」ということだ、と思われる。

では、それら、<驚き><注意を引かれること>を表現する行為は、どんな言語ゲームであるのか?

 

それについて、この場で議論を尽くすことは不可能である。

できるのはただ、いくつかの朧げな文章から、ウィトゲンシュタインの考察の方向を推測し、さらなる読解のための道標とすることだ。

 

5. 

『心理学の哲学Ⅰ』より、馬の絵を前にして、

しかし、「人はこの描かれた馬が走るのを見ているのだ!」と人が言ったとしたらどうか。-だがその際私は単に「これが走っている馬を表していることを私は知っている」と言いたいのではない。人はそれによって何か別のことを言いたいのだ。ある人が、こうした絵を見ると、手である身振りをしながら「ヒューッ!」と叫ぶことによって反応する、と想定せよ。それはその人は馬が走っているのを見ているのだということとほぼ同じことを意味するのではないか?またその人は「馬が走っている!」と叫ぶかもしれない。この叫びはその馬が走っていることの確認ではないし、それが走っているように見えるscheineということの確認でもない。それはちょうど人が「ほら、あの人はあんなに走っている!」と言うときーそれは他人に何かを伝えるeine Mitteilung zu machenためではなく、実は人々が一致してsich finden行うような一つの反応Reaktionであるのと同じようなことである。(RPPⅠ874 佐藤徹郎訳)

以前注意したようにウィトゲンシュタインは、「アスペクトの閃き」「あるものを・・・として見る」等に関する表現として、広く様々な形式の発話を挙げている。上の引用はそれを示す一例である。

ここで、「ヒュー!」や「馬が走っている!」「ほら、あの人はあんなに走っている!」を、「アスペクトの閃きの表現」と呼べるだろう。

(別の穏やかな仕方で表現すれば、「私は、今、この絵を馬が走っているところとして見ています」等になるだろう。ただ、それは、こららの表現総てが似た使用を持つことを意味するのではない。)

 

ウィトゲンシュタインはそれらについて、他人への伝達Mitteilungではなく、人々がその内で「出会うsich finden」、一つの反応のようなものだ、と言う。

‘sich finden’は、前回のテーマであった間主観的な「合致」、「同意」に似た内容を表している、と解釈する。

 

「馬が走っている!」「ほら、あの人はあんなに走っている!」という発言は、走っている対象が、聞き手にも現前している場合に使用されることに注意しよう。「2つの使用」の後の方と比較すること。

 「見る」という語の2つの使用。
その一つ:「君はそこに何を見るか?」-「私はこれを見る」(そして、記述、描画、模写があとに続く)。

もう一つ:「私はこれら2つの顔に類似を見る。」-私がこれを伝える当の人は、私と同じく明瞭にこれらの顔を見ていてもよい。 (PPF111)

 「ヒュー!」や「ほら、あの人はあんなに走っている!」は他人への伝達Mittteilungではない、という主張は、「2つの使用」の最初のタイプではない、という意味にとれる。(例えば)優勝決定戦でどちらのチームが勝ったかを、結果を知らない人に言葉で伝えることに似たタイプの使用ではない、と。

※「・・・に類似を見る」と「として見る」の2つの形式が変換可能であることは、「比較の体験」で触れて置いた。

 

「ヒュー!」や「ほら、あの人はあんなに走っている!」は、あることに、他者の「注意を引く」役割を果たしている、と言えよう。あるいは、他者に あることを「強調する」役割をしている、と。

もちろん、このような特徴づけは簡略に過ぎ、広く漠然としているから、さらなる規定が必要だ。また、それとは違った使用の仕方も存在するかもしれない。だが、上のような特徴は、「美学的説明」や証明、文法的命題にも見て取ることができよう。

例えば、次のような会話の中にー

ここで私の頭をよぎるのは、美的対象に関する会話で、次のような表現が用いられるということだ。それは、「君はこれを、このように見ないといけない、これはそういう意味なのだ」、「これを、このように見れば、どこが間違っているのかわかるよ」、「これらの小節は、導入部として聞かないといけない」、「この調として聞かないといけない」、「旋律をこのように区切らないといけない」、といった表現だ(そして、これらは鑑賞にも演奏にも関係する)。(PPF 178、鬼界訳 )

 6.

たが、それだけではない。「ヒュー!」や「ほら、あの人はあんなに走っている!」を特徴づけているのは、ある種の「生々しさ」である。(<傾性的な「として見る」の記述>との違いに注意)

ここには、主体の対象への没入Beschäftigungが存在する。「・・・として見る」を、生々しい「感覚」に近づけるもの。

問題は、これに関連した別の概念が、なおわれわれにとって重要となるかどうかである。即ち、そのように見る という概念、しかも私が、像に対して、それが描き出された対象そのものであるように没入するbeschäftigen場合にのみに適用されるような、そのように見る という概念が。(PPF199)

この目、この点にすぎないものが、ある方向を見るということがどうして可能なのか?ー「ほら、こんなふうに見ているのだ!」(こう言いながら人は自分で<見て>みせる。)しかし人はその絵を眺めている間、たえずこう言ったりしたりしているわけではない。ではこの「ほら、こんなふうに見ているのだ!」というのは一体何なのか。-それはある感覚Empfindungの表現なのであろうか?(RPPⅠ880 佐藤徹郎訳)cf.PPF201

「ヒューッ!」「ほら、あの人はあんなに走っている!」「ほら、こんなふうに見ているのだ!」といった表出は、あたかも、他者に体験の共有を迫るかのようだ。

(続く)