説明のアスペクトに向かって

1.

前々回、「叙想的テンス」(寺村秀夫)に加えて、「叙想的アスペクト」の概念を導入した。

フランス語学の渡邊淳也は、「事態そのもののアスペクトは完了相であるにもかかわらず、未完了アスペクトをあらわすはずの半過去が使われるいくつかの場合」を例として、これを解説している(渡邊「叙想的時制と叙想的アスペクト」p212)。

 

まず挙げられているのは、絵画的半過去(imparfait pittoresque)と結末の半過去(imparfait de clôture,imparfait conclusif)である。いずれも、事態としてはperfectiveであり単純過去で描出されてしかるべき事柄を、半過去を用いて描き出す、という特徴を持つ。

渡邊が例示する文章は、いずれも小説から採られている。

前々回は結末の半過去の例を引用したので、今回は絵画的半過去の例を渡邊の論文から引用する。

(3)La clef tourna dans la serrure. Monsieur Chabot retirait son pardessus qu'il accrochait à la porte d'entrée,pénétrrait dans la cuisine et s'installait dans son fauteuil d'osier.

(G.Simenon, La danseuse du Gai-Moulin, dans Œuvres romanesque,p599)

鍵が鍵穴のなかで回った。シャボー氏は外套を脱ぎ、それを入り口のドアにかけるのだった。そして、台所に入り、柳のひじかけいすに腰をおちつけるのだった

 この例で、連鎖する半過去で述べられているのは、完了アスペクトの事態であり、しかも物語の前景(premier plan)であるので、本来なら単純過去で示されるはずであるが、それにあえて半過去を用いることで、いわば、情景を静止画(あるいはスローモーション)でえがきだすような効果が生まれ、「意味のある行動」というニュアンスや、探偵小説にふさわしいサスペンス効果がえられるのである。

(渡邊、前掲論文、p193、強調に関して説明する箇所の引用を省略した)

残念ながら、フランス語の語感について云々することは筆者には無理である。ただ、引用した訳文が示すように、日本語では「・・・のだ」「・・・のだった」の使用がこれに相当するのかな、と思える。

※ここで、物語の「前景」について言及されていることに注意。「前景ー背景」という対立概念、およびそれらとアスペクトとの絡みに関する問題意識は、ヴァインリヒ『時制論』から発して共有されるものとなった。これに関しては、いずれ触れたいと思う。

2.

では、日本語における「・・・のだ」の機能は何か?

1 ある事態を別の事態の説明として述べるムードを「説明」のムードと呼ぶ。説明のムードを表す形式には、助動詞の「のだ」、「わけだ」がある。

2 「のだ」は、ある事態に対する事情・背景の説明を述べる形式である。「わけだ」がもっぱら理屈に基づく説明の表現であるのに対して、「のだ」は、話し手の主観的な判断による説明であってもよい。

(益岡隆志・田窪行則、『基礎日本語文法ー改訂版ー』p131)

 「「のだ」は、ある事態に対する事情・背景の説明を述べる形式である。」

これを字面通り受け取ると、先の例文の意味するところは、フランス語から日本語への翻訳によって「ズレ」が生じているように思われるだろう。絵画的半過去や結末の半過去は、物語の「前景」を、事態の本来のアスペクトとは異なったアスペクトで描出するものであった。それに対して、「のだ」の機能は、事態の「背景」を「説明」することだ、というのであるから。

だが、この問題は、これ以上立ち入らない。絵画的半過去、結末の半過去の機能に対する解釈、「のだ」の機能の理解、「前景ー背景」という対立概念の掘り下げ、いずれも、通りすがりに軽く手を伸ばして得られるものではない。

むしろ、「のだ」への関心から「説明」という機能が視野に入ってきたことに注意しよう。

というのも、渡邊は、「叙想的アスペクト」の例として、絵画的半過去、結末の半過去と並べて、「説明の半過去」を取り上げているのである。

 

 3.

 渡邊が挙げた「説明の半過去imparfait d'explication」の例は次である。

「説明の半過去」とは、Le Bidois et Le Bidois (1935, t.1, p.434,§.730) 用語であり、つぎの例のように、半過去で示された事態が、文脈上、他の事態に対する事情や理由の説明になっている用法である。

(45) Il sursauta: la porte s'ouvrait.

                          (Vercors, cité dans 朝倉・木下2002,p.257)

       彼は(おどろいて)とび上がった。とびらが開いたのだ。

この例において、半過去におかれている「とびらが開いた」という事態そのものは、「彼がとび上がった」という事態とおなじく、全体的(総覧的)アスペクトでとらえられるはずであり、それが叙事的アスペクトの次元である。

(渡邊、前掲論文、p214)

ゆえに、「とびらが開いた」という事実は、parce que(なぜなら)等の接続詞を補って単純過去や複合過去で記されてもよかっただろう。にもかかわらず、「とびらが開いた」ことを表すのに半過去が使用されている。そこに、叙想的アスペクトの例と目される理由がある。

しかし、一方で、「とびらが開いた」という事態は、この場合、「彼が飛び上がった」という、物語の前景をなすできごとに対する事情説明や理由であることから、背景(arrière-plan)としてとらえられることになる。

(渡邊、前掲論文、p214)

ここでも、「前景ー背景」の対立が関わってくることに注意。要するに、「背景」の描写であるから、半過去が使用される、と主張されるのだ。

では、なぜ、「背景」には半過去、なのか?

当然そこが大きなポイントになってくるのだが、すぐにそこに話を持ってゆけるわけではない。この問いを保留し、いくつかの関連する概念について整理しておく必要がある。

 

4.

まず、確かに、「とびらが開いた」という事態は、「彼がとび上がった」という事態に対する説明となっている。

だが、この「説明となっている」とは、どのような事態か?どのような構造を持っているのか?

哲学的に言えば、「説明とは何か?」は、この世でもっとも厄介な問いの一つであろう。

その問いに、このような場所で答えようとするのは、小さなまな板の上でクジラを丸ごと解体しようと企てるに等しいが・・・

 

5.

まず、上の文の訳を見ると、「とびらが開いたのだ」と、ここでも「のだ」が登場している。

再び「のだ」に関して、日本語の文法書を見ると、

一つの文は談話の中では常に、他の文や、その文が使われている状況との関連の中で存在しています。日本語にはこうした関連づけを明示する形式がいくつか存在しますが、その中で最も多用されるのが「のだ」です。

・・・

「のだ」には先行する文や発話を取り巻く状況との関連づけを表す用法があります。

(庵功雄他、『初級を教える人のための日本語文法ハンドブック』、p270)

この「関連づけ」がすなわち「説明」である、とも言える。つまり、「彼がとび上がった」という事態に対し「とびらが開いたのだ」が説明となるのは、2つの事態の間に「関連」があるからだ、と。

だが、こう言ったからといって、「説明とは何か?」という問いの困難さが軽くなるわけではない。「説明」の概念がはらむ不明瞭さを「関連」という概念へ移し替えたに過ぎない。

 

6.

 では、「関連」をどうとらえるか?

例えば、「関連性理論」では、「関連性relevance」の概念を、発話の持つ認知的効果cognitive effectによって定義しようとする(今井邦彦、『言語理論としての語用論』、1.4.1.)。

すなわち、「とびらが開いたのだ」という発話が聞き手にとって関連性を持つのは、そのコンテクスト的含意contextual implicationによって、聞き手の認知的環境cognitive environmentを改善する効果を持つからである。ある発話が、聞き手の認知的環境を改善する結論をもたらす推論の構造において、一つの前提の役割を果たすとき、その発話は、聞き手にとって関連性がある。

 

だが、ここでは推論形式に結び付けて一般化に向かうよりも、なるべく、言葉の使用が示す「関連づけ」の様々なあり方を具体的に見てゆくことによって進んでゆきたい。

何度も引用することになるが、ウィトゲンシュタインの次の言葉が「説明」「関連」に対しても当てはまるだろうから。

「説明」「関連」という概念を一般化して無自覚に依りかかるとき、「状態」の場合と同様に、「われわれはいかなる特定の方法や特定の言語ゲームよりも深いところで、堅固な究極の基礎の上に立っているつもり」になる。

ところがこれらのきわめて普遍的な言葉は、また同時にきわめて漠然とした意味をもつ言葉でもある。これらの言葉は、実際には無数の特殊な事例にかかわっている。しかし、そのことは、これらの言葉をより堅固なものにするわけではなく、むしろより不安定なものにするのである。(RPP Ⅰ 648 佐藤徹郎訳)