心理的概念の地形学

1.
言語ゲームの多様性の観点から、心理的概念の領域を眺めるならば、次のように言うことができよう。
往々にして、一つの言葉にいくつもの使用が存在し、なおかつそれらの使用が互いに大きく異なっている、と。

たとえば、<考える>について。

 <考える>、広く分岐した概念。生活の多様な発現を結び合わせた、一つの概念である。思考の諸現象は広く、離れ離れに分布している。(Z110)

「考えながら」のような言葉の用法は、最初の見かけよりも確かに著しく不安定なものである。(RPPⅡ234 野家啓一訳)

われわれが「考える」という言葉の使用についていだく素朴な観念Vorstellungはまったく事実と一致していない。われわれが期待するのは、滑らかな、規則正しい輪郭なのに、見出すものは寸断されたものである。ここで、われわれは誤った像を作っていたのだ、と実際言うことができよう。(Z111 菅豊彦訳)

この言葉は単一の用法をもっていると予想すべきではない。むしろ、その逆を予想すべきである。(Z112 菅訳) cf.Z113

このような語が表す概念の内部には大きな差異がはらまれている。
「経験(Erlebnis)」(cf.PPF223,224)、「感覚」(cf.PPF231)「考える」、「見る」、このような一般性の強い諸概念こそ、いくつもの「断層」や「傾斜」をはらんでいることを認識しなければならない。 

 「もしあなたが生理学的な偏見にとらわれてさえいなければ、まなざしもまた見られるということに、何の不思議も感じないだろう。」(Z 223 菅訳)

「しかし、これは見ることではない!」-「だが、それでもこれは見ることだ!」どちらの意見も、概念的に正当化することは可能なはずである。(PPF181)

さて、われわれが、ある表現を感じることを「見ること」として語るなら、これは、単なる概念的移行であり、つまりは我々が 金との結婚について語る場合と同様なことなのだろうか?ここにあるのは、単なる誤解なのか、それとも「見る」という概念のゆるやかな傾斜なのか?(LPPⅠ765)

 2.
これらの概念のはらむ問題については、次の断章が見事に言い表している。

体験Erlebnisの概念。それは出来事Geschehenとか過程Vorgangとか状態Zustandとか何かあるものEtwaとか事実Tatsacheとか記述Beschreibungとか報告Berichtとかいったものの概念に似ている。ここでわれわれは、いかなる特定の方法や特定の言語ゲームよりも深いところで、堅固な究極の基礎の上に立っているつもりなのだ。ところがこれらのきわめて普遍的な言葉は、また同時にきわめて漠然とした意味をもつ言葉でもある。これらの言葉は、実際には無数の特殊な事例にかかわっている。しかし、そのことは、これらの言葉をより堅固なものにするわけではなく、むしろより不安定なものにするのである。(RPP Ⅰ 648 佐藤徹郎訳) 

 ウィトゲンシュタインの哲学上の姿勢を鮮やかに示す上の言葉は、「心理学の哲学」全般への入り口に掲げられてもよかっただろう。

 われわれは確かに概念の片々を見てはいる。だが、一つの概念を他の概念に移行させる傾斜を、はっきりと見てはいない。(RFM Ⅴ 52 中村秀吉・藤田晋吾訳p313)

概念の傾斜を理解し、表現することは難しい。(LPPⅠ752)

 ここで再び地表の比喩が思い起こされる。「概念の地形学」と呼べるようなものを、われわれは想定できるのである。