感覚と状態

1.
「感覚」Empfindung,Gefühlが関連づけられ、類比される、さまざまな概念について、簡単に見ておきたい。

「内的体験innerer Erlebnis」「内的出来事innerer Vorgang」「心的出来事seelischer Vorgang 」について。

まず、「(内的)体験」という概念への類比の例。

 われわれは、ある感じGefühlをもつことによって、いわば語の映像と、自分たちの発する音声とを結びつけるある種のメカニズムを知覚しているように想像している。なぜなら、わたくしが影響されると言う体験、因果関係の体験、導かれると言う体験について語っているときには、文字を見つめることを発声することに結びつけるような、いわば梃子[入れ]の運動を感じている、ということをまさに言っているはずだからである。(PI170 藤本隆志訳)

「一瞬の間わたくしは・・・しようと思った。」すなわち、わたくしは一定の感じGefühl、内的な体験を持ったのであり、そのことを思い出しているのである。-では、本当に精確に思い出してみよ!そこでは意欲という<内的な体験>が再び消えうせてしまうように見える。(PI645 藤本訳)

2.
「出来事、過程Vorgang」という概念への類比、それに対する批判。 

 だが、理解を<心的出来事seelischer Vorgang>であると考えないようにしてみたまえ!-なぜなら、それは君を混乱させてしまうような言い回しなのだから。(PI154)

自分の場合には理解することが一つの内的出来事innerer Vorgangである、と報告したひとに対して、われわれはいったいどう抗弁するのであろうか。-自分の場合にはチェスをすることができるということが一つの内的な出来事である、と言ったひとに対して、われわれはどう抗弁するのであろうか。-かれにチェスができるかどうか、われわれが知りたいと思っているときには、彼の内部で起こっていることなど、われわれに全く興味がないのだ、と。-そして、もしかれがいまこれに答えて、それこそまさにわれわれの関心事なのだーすなわち自分にチェスができるかどうかということなのだ、と言うとすれば、-そのとき、われわれは、かれの能力をわれわれに証明してくれるような基準、そして他方では<内的な状態innere Zustände>ということの基準、に対してかれの注意を喚起しなくてはならないであろう。
たとえ誰かが特定の何かを感じているときだけ、またそのあいだだけ、一定の能力があるのだとしても、その感じが能力なのではなかろう。(PPF36、藤本訳 cf.RPPⅠ302)

 3.
先に見たように、「感覚」は「状態Zustand」という概念とも関連する。これは今後も繰り返し立ち返るであろう重要なポイントである。「感覚」は「心的状態Seelenzustand,seelischer Zustand」「内的状態」innerer Zustandと呼べるだろうか。

 事実は、単純に言えば、私が ある異なった技術を担っている言葉(ein Wort,den Träger einer anderen Technik)を 感覚の表現Gefühlsauadruckとして用いる ということである。つまりある新しい仕方で用いるのだ。ではこの新しい使用法は何によって成り立っているのか?一つには私がー「感覚Gefühl」という言葉の用法を通常の仕方で学んだ後にー「私は<非現実性の感覚Gefühl>を感じる」と言うということによって。その上、その感覚が一つの状態であることによって。(RPPⅠ126)

わたくしは実際にそのつど何か違ったものを見ているのか、それとも自分の見ているものを違ったしかたで解釈しているにすぎないのか。わたくしはこの最初のほうを主張したくなる。だが、どうしてか。-解釈することは考えること、行為することである[のに]、見ることは一つの状態なのである。(PPF248 藤本訳)

見ることにおいて本質的なことは、それが一つの状態であり、またそうした状態は別の状態へと急変しうる、ということである。しかし私は、彼がこのような状態にあることを、それゆえ知る、理解する、[概念的に]把握するといった傾性(Disposition)と比較しうるような状態にあるのではないということを、どうやって知るのか。このような状態の論理的特性とはいかなるものであるのか(RPPⅡ43 野家啓一訳)

 4.
最後の引用(RPPⅡ43)が示しているように、「心的状態」の概念の内部には、重要な差異が存在している。
「状態」という概念は、<真の持続>を持つ感覚や情緒のみでなく、<真の持続>を持たない心的概念の一部をも含んでいる(意識状態と傾性)。とはいえ、傾性もまた、ある時間間隔を持続するものだといえる。

 人は「機能的状態」について語ることができよう。(それはたとえば、私は今日ひどく不機嫌である、というような場合である。人が私に今日かくかくのことを言うと、私はつねにかくかくの反応をする。これと対比されるのは、私は一日中頭痛がしていた、というような場合である。)(RPPⅠ61 佐藤訳)

信念、願望、恐れ、希望、愛着、人はこれらを人間の状態と呼ぶことができる。われわれがこの人に対して何らかの態度をとる際には、こうした状態を計算に入れ、その人の状態からその人の反応を推理することができる。(RPPⅠ832 佐藤訳)

 そして、大事なことは、「状態」という概念がすでによく知られた自明のものである、と思い込まないことである。実際の「使用」から、「状態」とは何であるかを確認してゆかなければならない。

 ただ、「見るという状態」がここでどういうことを意味しているのか、自分ははじめから知っているのだ、などと考えるな!慣用を介して意味を自分に教えよ。(PPF250 藤本訳) cf.PI573

   5.
「心的状態」という概念への類比は哲学的問題が生じる大きな源泉の一つである。ここでも時間様態がポイントとなっていることに注意しよう。

 広くゆきわたった一種の思考法の病気がある。それは、我々のすべての行為が、あたかも貯水池から涌きでてくるように、そこから涌きでてくる心的状態mental stateとも呼べようものを探し求め(そして見つけ出してしまう)病気である。(BBBp143 大森荘蔵訳p230)

それにもかかわらず、さまざまな理由から我々は、何かが可能であるとか誰かが何かができるとか等ということを、人なり物なりが或る特定の状態にあることだとして考える傾きがある。簡単に言えば、我々がもっとも使いたいと感じる表現形式は、「Aは何かをすることができる状態にある」、という形式なのだ、ということである。別の言い方をすれば、或るものがかくかくに振舞うことができる、と言うときに我々はその或るものが或る特定の状態にあるという比喩を非常に使いたいのである。この言い表し方なりこの比喩なりは、「彼は・・・の能力がある」「彼は暗算で大きな掛け算がやれる」「かれはチェスがやれる」、といった表現に具現されている。これらの文のなかの動詞は現在形で使われている。そのことによって、われわれは、これらの言い方が、われわれがその言葉を口にしている時点において成り立っている状態の記述である、と考えてしまうのだ。(BBBp117 大森荘蔵訳p192、最後の部分を一部改訳。)

 最後の引用では、「状態」と「記述」との連関が示唆されている。このことを心に留めておこう。