「できる」という状態

1.

ウィトゲンシュタインは、『探究Ⅰ』150で、「知る」「できる」「理解する」といった語の文法の類似性に注意を促している。

「知っているwissen」という語の文法は、明らかに「できるkönnen」「能力があるimstande sein」といった語の文法に非常に類似している。しかし、また、「理解しているverstehen」という語の文法とも大変に類似している。(ある技術を<マスターしている>こと)(PI 150)

説明は省くが、「意味しているmeinen」を、同じように類似した語として、ここに加えてよいだろう。

以前、これらの語のいずれもが「規則に従う」という概念に結びつきを持っていることについて触れた。(規則遵守と関連する行為)(適用が正当化する

そこで次のような事実に目を向けた。「できる」を例にとる。

 (※便宜のため、「できる」の代わりに、「・・・することができる」という形式の表現(たとえば「泳ぐことができる」)を取り、一つの動詞のように扱う。)

 

a. それらの語の使用(例.「私はオムレツを作れる」)が、現実の行為(実際に「私」がオムレツを作ること)によって正当化される、という遡及的構造が存在する。

b. その行為(オムレツを作ること)は、その語を用いた言明(「私はオムレツを作れる」)の使用を正当化するプライマリーな規準である。調理の障害となる状況が存在しないのに実際の調理で作れない者、さまざまな機会に何度挑戦してもオムレツが作れない者は、「私はオムレツを作れる」と主張しても、普通は認められない。

c. ところが現実には、その行為の実現はそれらの語の使用に必須ではないし、正当化に必要不可欠ですらない。さまざまな特定の状況(行為主体のコンディションも含む)の成立を証拠として、行為が実現されない場合にも、「私はオムレツを作れる」は十分に正当な主張と認められることができよう。(cf.PI 181, 182)

d. しかし、オムレツを作るという行為は、「オムレツを作れる」に意味的な結びつきを持っている。

「オムレツを作れる」の使用が、特定の状況の存立のみから正当化されるようになり、現実にオムレツを作ることから完全に切り離されれば、それはもはや「オムレツを作れる」を意味してはいない、と言うべきである。

その反対に、ある特定の状況が成り立っていなくともある人が現実にオムレツを作った場合には、多くの状況で、「その人はオムレツを作れる」と言わざるを得ないであろう。

(「オムレツを作れる」にとって、現実にオムレツを作ることがプライマリーな規準である、と上に記したのはこのような意味で、である。)

 

「理解している」「意味している」についても、「できる」の場合に似た、行為の結果による遡及的な正当化が存在する。 

 

上述の条件は、少し手直しすれば、performance動詞による進行相での主張(例.「私はオムレツを作っている」)と その行為の終点(目標)endとの関係にも当てはまる。

 

a'. 実際にオムレツが出来上がることが、それ以前の言表「私はオムレツを作っている」を正当化する、という遡及的構造がある。

b'. 実際にオムレツが出来上がることが、「オムレツを作っていた」ことの、プライマリーな規準である。オムレツの調理を期待され、何の障害もない状況で、卵、フライパン、バター等用意して調理場に立った者が、最後にオムレツを作り上げなかったなら、その者が「私はオムレツを作っている」と調理の途中に発言したとしても、その発言は正当と見なされない。

c'. しかし、imperfective paradoxから明らかなように、オムレツが出来上がることは、「私はオムレツを作っている」が正当な主張であることの必要不可欠な規準ではない。調理中に飼い犬がじゃれついてきたため、出来上がりはスクランブルエッグ(状のもの)になったとしても、「私はオムレツを作っている」が正しくなくなるわけではない。発言の正当性を大きく左右するのは、主体のコンディションや、行為を取り巻く状況である。

d'. ただし、「私はオムレツを作っている」がオムレツを完成することから完全に切り離されて、もっぱら主体の状況のみを記述する言明と理解されるなら、それはこの言明の役割を誤解することだと言わなければならないだろう。

 

 a.,b.において正当化するものは、発言からみて、未来、または現在、あるいは過去における当の行為であり、同様にa'.,b'においては、未来における行為の終点の実現である。それに対して、c.やc'.で正当化するものは、多くの場合、現在の状況(行為主体のコンディションを含む)である。

ただし、実際には、(例えば)過去の行為(「私がオムレツを作った」)をとってみても、その存在が、無条件にいかなる言語ゲームにおいても、「私はオムレツを作れる」という言明を正当化するわけではない(cf.BBB, p103,(49))。

現実には、行為による正当化-状況による正当化、という対立項の優先性、優先度は、様々な場合に、細かく異なってくる。ここでは、そのような事実の詳細に立ち入ることなく、簡略化して述べている。

われわれが、「合うpassen」「できる」「理解する」ということがらに妥当させている基準は、一見してそう思われるよりも遥かに複雑なものである。(PI 182, 藤本隆志訳) 

 

2.

これら、「知っている」「・・・することができる」「理解している」「意味している」は、ヴェンドラーの分類においても、そこから影響を受けた種々の動詞アスペクト分類においても、「状態動詞」に分類される。

(※上述したように、便宜のため、「・・・することができる」という形式の表現(たとえば「泳ぐことができる」)を一つの動詞のように扱う。)

※ここではwissen, verstehenやmeinenは状態動詞として扱われているが、それとは区別される、achievement動詞としての用法を、ウィトゲンシュタインは後に取り上げており、重要な論点としている。(cf.PI 151)

関連して注意しておきたいのは、ウィトゲンシュタインの考察の多くが、ドイツ語という、動詞変化によるアスペクト表現が比較的乏しい言語で記されていることである。日本語では「理解する」-「理解している」のように使い分ける場面で、ドイツ語では副詞句等を活用してアスペクトの違いを表現する。ドイツ語には英語の現在進行形、過去進行形、フランス語の半過去に相当するものは存在せず、一般に現在形、過去形が、perfectiveの用法もimperfectiveの用法も備え持っている。そのことがテクストと読解の双方にもたらしている影響について、改めて考えて見る必要があるかもしれない。

のみならず、これらは通常、「状態動詞」の典型として挙げられる動詞である。

(『探究Ⅰ』150で挙げられた” imstande sein”「能力がある」は、”im Stand sein”とも記されるが、”Stand”は、まさに「状態」の意味を持つ言葉である。)

 

 しかし、a~dのような文法的特徴をもつ「私はオムレツを作れる」が、他の状態的な動詞句を用いた文、例えば「地球は球に近い形をしている」「北海道は本州の北に位置する」等と区別されずに一緒に扱われるなら、重大な差異が見逃されている。そのように、ウィトゲンシュタインは主張するだろう。

ただし、さまざまな考察を読んで気付くのは、彼が決して「心の状態」という概念自体を排斥しようとはしていないことである。なるほど、心理学的概念を説明する際、この概念は、濫用されていると言いたくなるほど広く用いられており、ウィトゲンシュタインはそれに対し、さまざまな場面でツッコミを入れつつ、明晰化を図っている。(cf.PI 149, 180, 572-3, 608, PPF29, 72, 79, 85, 102, RPPⅡ43, 177  etc.) しかし、決して、その使用を頭ごなしに否定はしていないのである。(もちろん、それなしでは考察不可能なほど一般的な概念であるから、ということもあるだろう。)

 

3.

「知っている」との関連で、次の考察を見ておこう。

ABCを知っていることは心の状態である、と言うとき、何らかの心の機構(われわれの脳のような)の状態を人は考えている。そして、知識の表出Äußerungenを説明する際にわれわれが持ち出すのは、そのような状態である。そういった状態は、傾性Dispositionと呼ばれる。しかし、ここで心の一つの状態einem Zustand der Seeleについて語ることには疑念がないわけではない。その場合、その状態には2つの規準が存在するはずだからである:すなわち、その機能から独立して、機構の構造を識別すること(PI 149)

おそらく、ここで2つの規準といわれているものは、機能による規準と、機構の構造による規準である。前者は上述した「行為によって正当化する」規準に対応し、後者は「状況によって正当化する」規準に関連する。ウィトゲンシュタインは、ここで一つの「心の状態」について語ることに、疑問を投げかけている。

次のように問題を言い換えることもできるだろう。

2つの規準に意味的連関がないなら、一方の規準がみたされるが他方の規準が満たされない場合があり得ることになり、「この状態にある」というべきかどうかが不明な状況が生じる。(説明は省くが、「規則に従うこと」の傾性による解釈にまつわる困難に関連している。)

もし、2つの規準に厳密な意味的連関を求めるなら、「この状態にあった」ことは「ある機能を果たした」ことの言い換えにすぎなくなる。そして、「この状態にある」ことは、同時的には決定不能となる(未来から遡及的にのみ、正当化される)。

(以前取り上げた、規則と行為の関係に関するディレンマに類似した状況。結局のところ、考察は同じものの周りを何度も回ってきたのである。) 

 

4.

本題から少し逸れるが、ある言明の正当性が現在の状況と未来の事象という二重の規準を持つことは、別に奇異な現象ではないことに注意しておこう。

というのも、普段の会話において、未来の事象に関する発言(例.「彼は明日、病院に行く」)がネガティブに評価される仕方は、その発言が偽である場合と、嘘である場合の2通りがあるからである。

「私が嘘をつく時、未来ではなく現在の、あることによって、私の言うことは嘘なのである。自分はあることをしようとしている、と嘘を言ったものの、結局、そのことをするはめになる、ということもありえるのだ。つまり、こうである。嘘とは、発言者の思いmindに反する発言であり、発言者の思いとは、意見である場合も、何かを現実にしようとする意向である場合もある。」(Anscombe,Intention, p4)

「嘘」は、発言者の発言時の思いに反するから「嘘」なのであって、未来の事象を言い当てているかどうかは別の問題なのである。

この場合、上の「状態」の場合と違って、事象の成立に関する規準は分裂するわけではない。

 

5.

 「できる」の使用間においても、さまざまな違いが見出される。ウィトゲンシュタインは、『茶色本』(BBB,p100~)で、様々な言語ゲームを例にして考察している。その詳細を取り上げることは別の機会にしたいが、ただ一つ、次のような違いに彼が注意を促していることを記憶しておこう。

さて、われわれは、この三つの例において、「これこれのことが起こりうる」という形式の文は対象の状態を述べている、と言うかもしれない。しかし、それらの例の間には、非常に大きな相違がある。44)では、われわれは記述される状態を眼前にしている。(・・・)このような場面で使われる「対象の状態」という表現には、安定的感覚経験 a stationary sense experienceと呼びうるものが対応している。(・・・)

他方、46)で棒の状態について語られるとき、この「状態」には、それが持続する範囲で持続する特定の感覚的経験は対応していないことに注意しよう。あるものがこの状態にあることを定義する規準は、さっきと違って、特定の、複数回のテストtestsなのである。(BBB p101)

ここでは、後に、<真の持続>をめぐる、<意識状態>ー<傾性>の対立として取り上げられた(RPPⅡ 45, 57, 178)テーマが先取りされて、対象の様態との関連において見出され、「できる」という概念のもつ多様性に関連付けられている。つまり、「心理学の哲学」は、最初から、心理現象に限定されないスコープの下で探求されていたことが理解されるであろう。