テイル形の記録用法

1.

引き続き、井上の論文(「現代日本語の「タ」」に依りながら、タ形とテイル形の使用の重なり、その条件等について見てゆく。

テイル形には「ていた」という過去形があるが、それとは別に、「ている」の形で、テンス的には過去とみなせる用法が存在する。それは、テンス的には現在とみなせる「結果残存」用法とは区別される。

あそこに百円玉が落ちている:結果残存

その年、東京には二度大雪が降っている:過去テンス用法

※ただし、ここで言う「過去テンス用法」は、「現在パーフェクト」として、過去テンスとはみなさない立場の方が一般的であるかもしれない。当ブログは、Wolfgang Kleinのテンス・アスペクト理論に方法的に依拠して話を進めており、その考え方では、この用法は、過去テンスと見なされるであろうことを以前指摘した。そのあたりの議論には立ち入らずに、まずは話を進めてゆく。

 

寺村秀夫は、上のような「過去テンス用法」を、「回顧的用法」という呼び名でくくっているが、他の研究者の中には、さらにその「過去テンス用法」の内部をいくつかに分類している者もいる(cf. ”テイル形とパーフェクト”)。

そのような細分化の根拠の一つとなりうるものは、「過去テンス用法」の中に、「た」によっておきかえられるものと、おきかえられないものとがある、という事実だろう。

 

井上は、工藤真由美「シテイル形式の意味記述」に倣い、現在パーフェクトのシテイル(当ブログで言う「過去テンス用法」)を、「シタ」におきかえられない「記録用法」と、「シタ」におきかえられる「過去的用法」とに分類して考察を進めている。その関係を、下の図のように表しておこう。(過去テンスー非過去テンスという分割は当ブログによる。)

(このような分類の妥当性について、実例をもとに検証することは別の機会とし、前に進む。)

 

「記録用法」とはいかなる場合か?

まず、記録用法の「シテイル」は、当該の出来事を「現存する記録や痕跡を介してのみ把握可能な出来事」として述べる表現である。......つまり、「現存する記録や痕跡では出来事pが実現されたことになっているが、出来事pが実現された時の経過は把握できていない」という場合、「シタ」は使えず、そのかわりに「シテイル」が用いられるということである。(井上、p111)

この場合のテイル形の使用には、「現状の解釈」という基本構造が潜在している。

中山種が大室よしのに宛てた葉書によると、種は昭和二十四年七月に霧積で八尾出身の人物Xに会っています(??会いました)。(「人間の証明」、井上論文から孫引き)

この例では、現状にはある葉書があり、それから種の過去の出来事が推測されるわけである。ただし、そのことは後景に退き、過去の出来事の方が前景化される(行為的パーフェクト)。

 

「シタ」が使えるためには、経過の把握という条件があることについて、前回触れた。

甲:乙さん、この間『「た」の言語学』を注文されましたね。

乙:え?そんな本注文したっけ?

甲:(注文のハガキを見せて)これ、乙さんの字ですよね。

乙:本当だ。確かに先月注文してる(?? 注文した)ねえ。

  あ、そういえば、何かそんなタイトルの本注文したなあ。

 

記録を見るかぎりは‘注文した’ことになっているが、自分ではそのような記憶がないという場合は、「注文した」は使えず、「注文している」を使わなければならない。「注文した」と言えるのは、‘注文した’時のことを思い出した後である。(井上、p111-2。下線強調は原文)

井上は、記録用法の「テイル」が「タ」に交換できない理由を、前回に見た、「タ」の使用条件と同じものであると捉える。上で述べたように、テイル形の「解釈の構造」は、この場合も、潜在的にであれ、保たれていると考えることができる。

問題は、「シテイル」が「シタ」で置き換え可能な場合である。それを次回に取り上げよう。

 

2.

もう一つ。「経過の把握」について、井上は、興味深い例に触れている。

次の例は、聞き手が当該の出来事が実現された経過を把握していないために、「シタ」が使いにくくなると見られる例である。

夫:ただいま。

妻:どうしたの。遅かったじゃないの。

夫:ちょっと本屋に寄ってきた(??寄った)。

この場合、妻は、「夫が本屋に寄った」時の経過はまったく把握していないが、「夫がここに来た」ことは直接把握している。夫は、妻のそのような認識状態に配慮する形で、「本屋に寄ってきた」という言い方をしていると考えられる。(井上、p157-8)

この例では、「シタ」が使いづらい理由に間主観的状況が挙げられている。この例はテイル形ではなく「てきた」という言い回しに関わるものである。しかし、テイル形の使用においても、間主観的状況が影響することを予感させる例となっている。このテーマは、いずれ第四種動詞を題材にして、取り上げる予定である。