前景と背景

1.

ヴァインリヒは『時制論』で、テクスト言語学の立場から、時制形式の機能を解明しようとした。

すなわち、言語的コミュニケーションの現場で、時制形式が与える情報(彼の言う「信号価 Signalwert」)を、3つの側面に区別して分析しようとする。それが「三つの標識 Merkmal」、すなわち、発話態度発話の方向浮き彫り付与 である。

 それにたいして私は、発話態度、発話の方向および浮き彫り付与という三つの標識で、もっぱらコミュニケーションの場面に注目しようとした。それはいずれにせよ三つの異なる視点のもとでとらえられるのである。話し手は聞き手にたいして、発話態度の信号によって、どんな態度で(緊張してかあるいは緊張を緩めて)情報を受け止めるべきかを知らせる。発話の方向という視点のもとでは、情報が出来事に先立って送られているのか、出来事より遅れて伝えられるのかを知らせる。(・・・)最後に浮き彫り付与という信号では、伝達対象に与えられている相対的な意味づけが、お互いの間でどのように理解されるべきであるかが指示されている。

(ヴァインリヒ『時制論』、脇阪豊他訳、p446-7)

2.

 ヴァインリヒはまず、諸時制を2分割する仮説を提示する。

仮説は次のようになる。つまり今までは専らドイツ語について考えてきたのだが、 一つの言語にはその諸時制を二つの時制群に分けるような一つの視点がある。私は二つのグループをとりあえず時制群Ⅰ、時制群Ⅱとよぶ。ドイツ語で時制群Ⅰに入るのは現在、現在完了、未来、未来Ⅱのような時制であり、時制群Ⅱに入るのはその他の過去、過去完了、条件法、条件法Ⅱのような時制である。(ヴァインリヒ、前掲書、p18)

 時制群Ⅰと時制群Ⅱの対立は、非過去/過去 という、多くのヨーロッパ語に共通する基本的テンス分割に対応する。

一般理論は絶対テンスの中に3項の区別を許すが、実際のところ、多くの言語では基本的に過去/非過去の対立、または未来/非未来の対立のどちらかの2項分割である。

過去/非過去は2.3節で述べたように多くのヨーロッパ言語の基本テンス分割で、非過去の中にせいぜい二次的なものとして(特に未来を現在に対立するものとして)下位区分がある。このような言語では現在テンスと言われるものが未来によく使われ、フィンランド語のような言語では未来を表す基本的な手段になっている。

(バーナード・コムリー『テンス』、久保修三訳、p71)

そして、

二種類の時制群を区別できると考えてきたわれわれの仮説をさらに進めて、 時制群Ⅰは説明の時制 besprechend. Tempus群とし、時制群Ⅱは語りの時制 erzählend. Tempus群と解釈することにしたい。「説明の時制」が明確に優位を占めるテクストは「説明のテクスト」とよび、「語りの時制」が優位を占めるテクストを「語りのテクスト」とそれぞれ呼ぶことにする。(ヴァインリヒ、前掲書 p20)

 フランス語であれば、

説明の時制  : 複合過去、現在、未来

語りの時制  : 大過去、前過去、半過去、単純過去、条件法

となる。

※ヴァインリヒの用いる「説明」(⇔「語り」)の概念は、当ブログが追っている「説明」の概念とは 異なった視点からとらえられたものであり、2つを混同しないことが重要である。今後、混同されやすい場面があれば、注意を促す。

そもそも、”besprechen”は、英語の”discuss”に相当する語であり、「会話(あるいは 話し合いdiscourse)の時制」、と訳す方が適切と思われる。

さらに、”erzählen”は、「物語る」「報告する」の意味であり、besprechen/erzählenの対立は、用語的にもバンヴェニストのdiscours/histoireという対立(「フランス語動詞における時称の関係」)に類似する。両者の比較等の問題についてはここでは立ち入らない。

(cf. ヴァインリヒ、前掲書、p321)

 3.

説明の時制、語りの時制という対立は、発話態度の側面においては、緊張の態度(⇐説明の時制)と緊張緩和の態度( ⇐語りの時制)という対立となる。

 さて、説明と語りの信号価は構造標識として、持続的にくり返し出てくる時制形態素に内在しているのであるが、これにより話し手は、テクストを受容する聞き手にたいし、ある決った方法で影響を与え、誘導できるように思われる。説明の時制を用いることは、経過していくテクストが緊張の態度で受容されることを指示する。つまり話し手は、聞き手にたいしてこの態度がふさわしいことを気づかせようとしているのである。逆に語りの時制を用いることにより、問題となっているテクストは緊張緩和の気分で受容してもよいことを話し手は聞き手に悟らせている。それゆえにわれわれは説明された世界の時制群と語られた世界の時制群の間の対立をひとまとめにして発話態度 Sprechhaltung と呼びたい。(ヴァインリヒ、前掲書、p36)

 

 4.

 次に、発話の方向Sprechperspektive という概念は、発話(文)が表す事象の 時間的位置関係に関わるが、単なる時間的前後関係の情報ではないことに注意したい。

つまり、マクタガート風に言えば、B-系列だけが問題となるのではない。

ヴァインリヒは、説明の時制、語りの時制、それぞれにおけるA-系列(的なもの)をも問題にしている。そのことは、後述する「ゼロの位置Null-Stelle 」という概念の存在に現れている。「ゼロの位置」とは、いわば「テクストに内在する現在」なのである。

ヴァインリヒの説明する内容は必ずしも明晰ではないが、疑問点の指摘等は別の機会にして、彼の言葉にそって簡単に紹介する。

 

説明‐語りの対立は、話し手ー聞き手関係の線上にあり、その信号価は、話し手と聞き手が情報にどう対処すべきか、その方法を調節する。(ヴァインリヒ、p71)

それに対し、「発話の方向 」は、テクストの経過を軸とする。テクストは一般に線的な記号連鎖であり、その中のどの記号もテクスト上の先行、後続をもつ。そして、先行情報、後続情報がその記号を規定する働きをする。このようにして、「テクスト時間」 というものが問題となる。(ヴァインリヒ、p72)

さらに、「行為時間」すなわち伝達内容の時点or時間経過、 と 「テクスト時間」との関係が問題になる。テクスト時間と行為時間は、遂行的発話のように同時である場合もあるが、一方が他方に先行してもよいし、遅れていてもよい。テクストは時制のシステムを通じて、そのような時間関係を表現できる。

ヴァインリヒは、その仕組みを、説明の時制、語りの時制、それぞれに共通する構造を指摘することで、説明する。(ヴァインリヒ、p73-74)

フランス語の説明の時制(現在、複合過去、未来)を例にとると、

現在時制は ゼロの位置Null-Stelleであり、テクスト時間と行為時間との関係は未定にされている。発話の方向には、この場合、まったく関心が払われていない。

これはライヘンバッハの時制論で言えば、time of eventとtime of reference が一致している場合であり、語りの時制では、単純過去と半過去がこれに当たる。

複合過去は、回顧の時制であり、情報は遡及的にとらえられ、聞き手は行為時間を回顧する。語りの時制では、大過去と前過去が相当する。

未来時制は、予見の時制であり、情報は先取りされている。聞き手は行為時間を予想しなければならない。語りの時制では、条件法が相当する。

 

5.

ヴァインリヒは、 浮き彫り付与 Reliefgebung の説明を、フランス語の単純過去と半過去の対立の解明から始める。ある物語の中での両者の出現の仕方を観察して、次のように述べる。

フランス語では半過去と単純過去は語りの時制であるから、ここで問題となるのは、物語の中での働きである。すなわちこの二つの時制は物語に浮き彫りを与え、そして物語をくり返し前景と背景に分けている。この物語の中で半過去は背景の時制であり、単純過去は前景の時制なのである。

(ヴァインリヒ、前掲書、p126)

では、前景Vordergrund、背景Hintergrundとは何か?ヴァインリヒは、「物語の中で背景とは何か、前景とは何かを断定的に述べることはできない」とことわった後で、次のように説明する。

話の初めにはある程度の序説的な解説が必要である。したがって物語はふつう導入部をもっている。そこでは一般的に背景の時制が用いられる。多くの物語はさらに、結末にはっきりとした締めくくりを与えている。その締めくくりのためにも背景の時制が好まれるが、それは必然的なものではないし、必ずしもそうとは限らない。ドミトリ聖人伝でわかるように、物語の初めと終わりにはかなり頻繁に背景の時制が集中的に用いられている。さらにまた、物語の中心部において背景の時制(半過去および大過去)が用いられるのは、付帯状況、描写、省略その他語り手が背景の中に入れておこうと考えるすべての対象を記述する場合である。

(ヴァインリヒ、前掲書、p126-7)

物語の基本法則に基づくと、前景とはふつうそのためにこそ物語が語られる事柄である。すなわちその目次が示しているもの、標題が要約しているかあるいは要約できるもの、人々がしばし仕事の手を休め、自分達の日常ではない世界の話に耳を傾けるようにしむけるもの、ゲーテの言葉で言えば「大変な出来事」である。この点から逆に物語の中で何が背景であるかが規定される。すなわち背景とは、一般的な意味で大変な出来事でないもの、それだけでは誰にたいしても聞き耳を立てさせないもの、しかし聞き手にとっては理解の手助けとなり、語られた世界の中で、その事情がよくのみこめるようにするものである。

(ヴァインリヒ、前掲書、p127)

このように、ここでもヴァインリヒの説明は十分に明晰とは言い難いが、ともかく、前景、背景をそれぞれ異なった時制形式で述べることによって区分することが、浮き彫り付与である。

 

※ヴァインリヒの「前景/背景」という対立は、ロラン・バルト(「物語の構造分析序説」』)の「機能/指標」という対立に類似している。バルトの背後には、ヤコブソン(「言語の二つの面と失語症の二つのタイプ」)からソシュールに遡ることのできる、「syntagme/paradigmeという言語の2つの軸」という概念が控えている。この「2つの軸」は、当ブログでここまで触れてきたさまざまな話題に深くかかわっているはずだが、今触れる余裕はない。

 

さらにヴァインリヒは次のように断言する。

 すなわち前景と背景に基づいて浮き彫りを与えることが、語られた世界の中で半過去と単純過去の対立がもっている唯一の機能なのである。

(ヴァインリヒ、前掲書、p129)

 つまり、単純過去との対立における半過去の機能とは背景を描出することである、と。

 

 6.

しかし、そのように言い切ってよいだろうか。

再び、例の文を取り上げる。

A midi,quand je suis rentré, tu dormais encore.

正午に僕が戻ってきたら、君はまだ眠っていた。

 この一文が、もっぱら「君」のある一日の行動を順次記録する、一群の文章の途中に現れたとする。他の文の中で「君」の行動はすべて単純過去で描出されていたとしよう。それらの文はすべて「前景」であり、上の一文のみが「背景」である、ということになるのだろうか?

 

7.

ヴァインリッヒが、半過去を「背景の時制」として、単純過去=「前景の時制」と対立させるのは、あくまでもフランス語の「語りの時制」の内部でのことである。

ヴァインリッヒは、「説明の時制」においては、発話場面に用意されている「言語外的な限定補助手段」が浮き彫り付与に寄与する、と言う。そのような「手段」の機能しない「語りの時制」においては、「言語的表現手段」が必要となる、と言う。そのような「言語的表現手段」が、フランス語の「語りの時制」の内でとる文法形態が、単純過去/半過去の対である。

このように、ヴァインリッヒにおいては、perfective/imperfectiveの区別が、単純に前景/背景の対比に重ねられるわけではないことに注意する必要がある。

とはいえ、『時制論』では他の言語(イタリア語、スペイン語、英語など)における浮き彫り付与についてもさまざまな考察がなされており、やはりimperfectiveな過去時制が背景の浮き彫りに関与することがくり返し主張されている。ただし、今詳しく検討する余裕はない。

 

このように、強い主張を行う割に、ヴァインリヒの「前景Vordergrund/背景Hintergrund」概念は明確なものとは思えない。だが、「背景」という概念は、imperfective aspectの機能を説明する際、奇妙なほど融通の利く、便利な概念であるのも事実だ。