1.
「ぴったり合うpassen」については、もう一つ指摘しておきたいことがある。
ウィトゲンシュタインは、さりげない口調で、気になることを述べている。
「合うpassen」、「できる」、「理解する」の文法。問題:1)シリンダーZが中空の筒Hにぴったり合う、といつ言うのか?ZがHにはめ込まれている間だけか?(PI 182、鬼界彰夫訳)
引用から明らかなように、この問いは、「できる」の使用への問いに類比されてもいる。
「できる」の使用について、様々な言語ゲームを用いて解明が行なわれているのは、『茶色本』であり、その課題は『茶色本』の中心的テーマの一つと言えよう(BBB p100~)。ただし、そこでは、われわれの使う「できる」という語の完全な解明が目指されているわけではない。ウィトゲンシュタインの意図は、様々な言語ゲームを比較の対象として用いることで、「できる」の使用の様々な相、他の言語ゲームとの類似と差異に光を当てることにある。
2.
「できる」の使用の中で、特に彼が問題としたものに次がある。
何らかの根拠に基づいてBが「私にはその数列を続けることができる」と言ったものの、実際に続けるよう言われると彼にはできなかった、という場合 ― そのことによって彼の「続けることができる」という言明は間違っていた、と言うべきか?それとも、彼が自分はできる、と言ったときには続けることができた、と言うべきか?B自身は、「私は自分が間違っていたとわかった。」と言うだろうか、それとも「自分の言ったことは本当だ、あの時私はできたのだが、今はできないのだ。」と言うだろうか?― Bが最初の方を言うのが正しい場合もあれば、後の方を言うのが正しい場合もあるのだ。(BBB, p115, cf. PI 181)
「Aは、Dができる」とは「Aは、Dをする(未来時制)」ではない。できてもしないかもしれないし、できても(様々な要因で)し損ねるかもしれない。しかし、それらの場合でも「Aは、Dができる」という言明は間違いではない。
「Aは、Dができる」を、事実との対応により 真または偽の真理値を取る文、と見なすなら、困難に陥らないためには、次のいずれかの立場を選ぶ必要があるように見える。(ここでは議論を極度に単純化している。)
1) 「Aは、Dができる」は、Aの、ある状態(傾向性)が成立することを言う言明である。
2) 可能世界のような、モーダルな存在を実在するものと見なす。
だが、「できる」の使用にかんして、より「純粋な」立場を考えることができるだろう。
3.
可能的事態とか、可能世界とかの実在を認めるなら、関連するさまざまな哲学的問いに悩まされる。
ならば、「できる」を状態(傾向性)の成立と解釈するとしよう。それでも次のような問題が残る。
私が ある人に「道は知っていますので、明日、君を自動車で空港に送ることができます。まかせてください。」と言う。しかし、当日の朝に私は具合を悪くして急遽入院し、その人を空港に送ることができなかったとしよう。それでも、私は自分の発言について、誤っていたとか、うそをついた、と言いはしないだろう。
未来の事象の成立と それを「できる」と発言する者の「状態」との関係は、常に経験的である。「できる」という発言と実行との間に、このようにカタストロフが起きるかもしれない。
それでも「できた」と言えるのなら、「送った」場合も「できた」、「送らなかった」場合も「できた」、と言い得ることになる。そうすると、発言者の「状態」と、「送る」という事象との関係とは何であるのか?
(ここでする余裕はないが、規則遵守の問題や、次回取り上げる志向性の問題の構図と比較すること。ウィトゲンシュタインが「できる」「知る」「理解する」の類似に注意を促した(『探究Ⅰ』§150)のには理由がある。)
そこで、これらの面倒をまとめて取り払うために、次のように言いたくなるかもしれない。
多分、次のように提案したくなるだろう。私があることをできる、と言うのが無条件に正しいのは、私がそう言うと同時にそのことを実際に行っている場合である。そうでない場合は「私は、・・・の限りにおいてas far as...is concernedそれができる」と言うべきである、と。実行を伴う場合にのみ、できることが実際に証明される、と考えたくなるのだ。(BBB, p116)
これが上で暗示した「純粋な」立場である。
「できる」ことの本来的な規準は「実際にする」ことである、という解釈。それは、哲学的にも正当であるように見える。(「適用が正当化する」)「純粋な立場」は、「本来的規準」とともに使われる場合にのみ正当性を認めようとするものだ。
さてしかし、「できる」という言葉の有意義な使用は、「本来的な規準」の成立を述べることだろうか?
65) だが、「私は・・・できる」という言い方が、上述したように使われる言語ゲーム(すなわち、あることができる、という主張を正当化するものは、実際にそれをすることのみ、とされるゲーム)を眺めると、次のことがわかるだろう。この言語ゲームと、「私はこれこれができる」という発言が他の事実によっても正当化される言語ゲームとの間に、形而上学的な差異はない、ということが。
さて、65)のような種類のゲームは、「もし、あることが起こるならば、そのことは確かに起こりうるのだ」という言い回しの実際的な使用を示してくれるが、そのような言い回しは、われわれの言語においてはほとんど無用のものだ。あたかも明解かつ深い意味があるように聞こえるものの、一般的な哲学的命題の多くと同様に、非常に特殊なケースを除けば、無意味な代物である。(BBB, p116-7)
言語ゲームの「形而上学的価値」を相対化し、さらにウィトゲンシュタインは、「もし、あることが起こるならば、そのことは確かに起こりうるのだ」という命題を「無用のもの」と言う。
次のような例を考えてみよう。
例えば、船が遭難して、数人が無人島に流れ着いたとしよう。船長だった人間が「われわれには、まず、火が必要だ。」と言う。それに対し、ある男が手を挙げて「私は火を起こすことができます。」と答える。
その男が、木を使って火を起こしている時、「ほら、私は火を起こせるよ。」と言う。
あるいは、企業の採用面接で、ある応募者が「私はプログラミングができます。」と言う。
その人がめでたく採用されて、仕事をしながら、「ご覧のように、私はプログラミングができます。」と言う。
それぞれの場合における、2種類の言表を比較してみよう。
ここで、ウィトゲンシュタインは「もし、あることが起こるならば、・・・」という一般的な命題を批判したのであって、「ほら、私は火を起こせるよ」「ご覧のように、私はプログラミングができます」のような発言を無意味としたのではないことに注意しておこう。このような発言は、それ独自の有用性をもっているのだ。
4.
ここで、冒頭の引用に戻る。
「シリンダーZが中空の筒Hにぴったり合う、といつ言うのか?ZがHにはめ込まれている間だけか?」
次のような例を考える。
仮に、ある製品の材料となる外筒シリンダーと内筒シリンダーとが、それぞれ別のメーカーによって作られている、としよう。(実際にそのようなことがあるか、はどうでもよい。)
当社では、A社が作る外筒と他社が作る内筒を組み合わせて製品を作りたい。このとき、A社の製品と他社の製品とが合うか合わないか、は非常に大事な情報である。
以前組み合わせた内筒を作っていた企業は廃業してしまって、その製品は手に入らない。現在、工場に、A社の外筒は 多量の在庫がある。
そこで、本社の社員が寸法等を調査して、「A社の外筒にはB社の内筒がぴったり合う」と工場に伝え、工場長が多量の内筒をB社に発注する。
社員の言葉が重要となるのは、工場にB社の製品がなく、現実には「A社の外筒とB社の内筒が合わさっていない」状況だからである。
つまり、A社の外筒とB社の内筒が実際に合わさっていることが、「A社の外筒にはB社の内筒がぴったり合う」ことの「本来的規準」ではあるだろう。しかし、「A社の外筒にはB社の内筒がぴったり合う」という発言の有用性は、むしろ「本来的規準」が満たされていない状況で成立する。
そして、先の例をみれば、「シリンダーが合う」の例は、「できる」のアナロジーとしても読めることがわかるだろう。
「私は火を起こすことができます。」という発言の重要性は、まだ火が起こされていない状況にある。
「私はプログラミングができます。」が重要なのは、採用前、すなわち、実際の仕事の前だからこそ、である。
5.
当ブログでは、ウィトゲンシュタインに倣って「できる」「知る」「理解する」「意味する」「意図する」等の言葉の文法上の類似に注目してきた。(また、それらの概念と「規則に従う」こととの関係にも、注意してきた。)
そこでは、それらの概念が、「行為の結果によって、まず第一に正当化される」という構造を持つことに注意した。(つまり、行為の結果が、「本来的規準」である。)
しかし、同時に、現実の行為の結果以外による正当化も存在し、それを単に副次的なものと見るべきではない、とも述べておいた(「適用が正当化する」「「できる」という状態」)
そこで念頭にあったのは、「シリンダーが合う」の比喩が示すような、本来的規準が欠けた場面でのこれらの概念の使用の有用性、であった。
6.
さらに、もう一つ注意しておこう。
先の無人島で火を起こす人の例で、火を起こしながら、「ほら、私は火を起こせるよ」と言う場合。あるいは、「ご覧のように、私はプログラミングができます」という発言。
これらの発言は、いわば「本来的規準」が現前する場で言われている。その役割は何か?
それを、共同注意の喚起、あることがらの強調、その確認、間主観的合意の形成、などと呼ぶことができるだろう。
それを以前触れた「馬が走っている!」に比較すること。
さらに「証明」に比較すること。
※補足。「できる」の傾向性解釈の問題点について。わかりやすいのは、傾向性を諸々の条件文「・・・の場合には、・・・する」によって分析する場合に出現する問題である。この文が含む条件法は、真理関数的条件法(実質含意)では駄目で、反事実条件法でなければならないだろう(飯田隆『言語哲学大全Ⅲ』、p186~)。そこで、反事実条件法を採用することは、可能世界のようなモーダルな存在を認めることなしに可能か、という問題が現れる。