「説明」の周辺(14):「記述」の観念

1.

ウィトゲンシュタインは、なぜ、美学的対象の「表情」と、それに対する主体の反応としての「表現」とを「同列に置いて」考察しようとするのか、というのがわれわれの問いだった。

 

その意図を推測してこの場で十分に描き出すのは困難である。が、まずは、「様々な先入見を排して、現実に行われている言語ゲームの姿をありのままに見るために」と答えてよいだろう。

彼が例にとるような美学的反応の言語ゲームでは、主体の反応としての「表現」以外に、より精細な「表情」の描写が登場するわけではない。身振りや顔の表情といった「表現」は、より精細な描写の省略形や代用品ではない。

というよりも、以下に見るように、「表情」の描写の存在自体、保証されてはいない。にもかかわらず「表情の正しい記述」にこだわれば、袋小路に陥るだろう。

人は、「この顔つきは一つのまったく特定の表情をもっている」と言い、その表情を特徴づける言葉に窮する。

こうして陥りやすいのが、哲学するときのあの袋小路である。すなわち、把捉しがたい現象、すばやくすりぬけてしまう現在の経験、といったようなものを記述することがわれわれに課せられていて、そのことに問題のむつかしさがある、と人はえてして思いこむ。(PGⅠ120, 山本信訳)

 だから、まず、そのような「表現」の役割を、先入見を排して見て取らなければならない。

ここでは、そのような原則の確認だけではなく、考察の「周辺」を、いくらかでも視野に入れることを試みよう。

 

2.

まず、「記述」という観念に関して。

美学的対象の「表情」や「感じ」が記述できない、という問題に立ち返る。

記述することができないという問題に結びついている論点の内、最も興味深いものの一つは、楽曲のバースや小節が与える印象が記述できない[ということ]である。(LCA p37)

ウィトゲンシュタインは、これについて、

「記述の観念のうちに誤りがある、と私には思われる」と語る(LCA p37)。

(ただし例のごとく、「誤り」の実体が直截に説明されることはない。)

 

われわれが実際に使用している「記述」の多様性と、

それに対する、 われわれが思い描く「記述」概念の狭さ。

どれだけの異なった種類のものが「記述」と呼ばれているかについて考えよ。ある物体の位置の座標を用いた記述、顔の表情の記述、ある触感の記述、気分の記述 。(PI 24、鬼界彰夫訳、最後の語句を補足)

個々の「記述」の特殊性。

だがその言語ゲームは、―私が記述する―感覚から始まるのではないか?―おそらくここで我々は「記述する」という言葉に惑わされているのだ。私は「自分の心の状態を記述する」と言い、「自分の部屋を記述する」と言う。我々はこれらの言語ゲームの違いを思い出す必要がある。(PI 290 鬼界訳)

我々が「記述」と呼ぶものは、特定の使用のための様々な道具である。( PI 291 鬼界訳)

それに対して、我々は、「記述」に関して画一的な像を思い描きがちである。

記述は言葉による事実の像Wortbild der Tatsachenだという考えには、誤解を生みやすいものが含まれている。そのように考える場合我々は、例えば、壁に掛けられた絵のような像についてしか考えない。( PI 291 鬼界訳)

それぞれの「記述」の差異を見逃さないことが重要である。

<記述Beschreibung>と<報告Bericht>という概念。次のような言い方がされる:ある人が「自分は心の中で・・・と言った」と報告する。これは、「誰それが・・・と言った」という<報告>に、どの程度まで比較可能であるか?記述することはきわめて特殊な言語ゲームであることを意識に呼び覚ませ。-この、われわれの諸概念の堅い基盤は、掘り起こされなければならない。(RPPⅠ600 )

ウィトゲンシュタインが、「記述」のような「きわめて普遍的な概念」を、安定した地盤と見なすのではなく、むしろ非常に不安定な足場と見なしていたことは、既に何度も確認した(cf. RPPⅠ648)。

 

3.

「記述」を安定した普遍的概念と捉える傾向は、「記述」を(原理的には)あらゆる事象に対して可能な行為のように見なすことを伴う。

しかし、

コーヒーの香りを記述してみよ!—なぜうまくゆかないのか?語彙が不足しているからか?何のための語彙が不足しているのか?—だが、そうした記述は確かに可能なはずだという考えはどこから来るのか?(PI 610、鬼界訳)

 例えば、コーヒーの表面から発される物質を鼻から吸い込んだ後の、一連の生理学的反応を記述すれば、コーヒーの香りを記述したことにならないだろうか?

いや、多くの人が「コーヒーの香りの記述」として求めるのはそのようなものではないだろう。求められているのは、コーヒーの香りを「言い当てる」ような言葉だ。

 

我々は、美学的対象から受ける「感じ」、美学的対象の「表情」についても、「原理的には」記述が可能であるはず、とみなすだろうか。

そうではなく、人は美学的対象(の表情)について、しばしば「とても言葉では表せない」と言う。

(「これらの音は何か素晴らしいことを語っている、しかしそれが何か私にはわからない」と私は言いたいのだ。これらの音は一つの強烈な身振りGesteだ、だが私には、それを説明するいかなるものをもその横に並べることはできない。深く心の底からうなずくだけだ。ジェームズ「我々には語彙が欠けている。」それならなぜ新しい言葉を導入しないのか?そうした導入ができるためには、どんな事情でなければならないのか?)(PI 610、鬼界訳)

ここで「これらの音」の表情を記述することは、それに対応する楽譜を記すことではない。

場合によっては、「これらの音」をそのまま再現することすら、十分でない。

あるメロディーの厳粛さを感じるempfindet人は、何を知覚しているのか?―聞いたものを再生することによって伝えられるようなものではない。(PPF 233 鬼界訳)

 

「これらの音は一つの強烈な身振りGesteだ、だが私には、それを説明するいかなるものをもその横に並べることはできない。」

身振り」「説明」「横に並べる(同列に置く)an die Seite stellen」といった言葉に注意。

我々はここで、「記述」の問題から、自然に「美学的説明」の問題に導かれている。

 美学のしていることは、しかるべき特徴に注意を引くこと、これらの特徴を示すためにいくつかのものを並べて置くことにほかならない。(WLC1932-35, p38, 野矢茂樹訳)
美学的な困惑を解決するために、われわれが現実に必要とするものは、ある種の比較ーある実例を一緒にまとめること、なのだ。(LCA,p29 )

「横に並べる」こととは、「比較」、「ある実例を一緒にまとめること」である。

例えば、ベートーベンの交響曲の一節を、「ここは、天が落ちて来るかのようだ」と「記述」したとする。これは「比較」である。「比喩」と言い換えてもよい。

「比喩」の対象は、このように、音響とは関係のない様々なものであり得る。

 

「これらの音」の表情が上手く記述できた、と見なされるのは、「これらの音」に対する「美学的説明」 が行なわれ、それが受け入れられた場合に他ならない。

というのも、美学的分析の正しさは、その分析が与えられた人の同意agreementにあるべきだからである。 (WLC1932-35, p40、野矢茂樹訳)

君たちは容認されるaccepted説明を与えなければならない。これこそが、説明なるものの全ポイントなのである。(LCA, p18)

 「同意」「受け入れられること」こそが「美学的説明」の要である。

 

 4.

「表情」の「正しい記述」の存在が、アプリオリに保証されているわけではない。

ここで「表情」を「記述する」こととは、新たな比喩を与えることに似る。

そしてその比喩が的外れで、他者に受け入れられないものであったなら、それは「表情」の記述とは呼ばれない。記述の成立には、間主観的な「合致」、「合意」が条件となるのだ。

「表情」を新たな比喩によって記述するとき、その「記述」はその場で新たな合意を形成し、「記述」として受け入れられる。

そのような「記述」は、数学における新たな証明に、その役割において類似する。

証明において、われわれは誰かと一致する。(In einer Demonstration einigen wir uns mit jemand.)(RFMⅠ66, cf.RFMⅠ153)

次のように言えるであろう:証明は合意Verständigungに寄与する。実験は合意を前提としている。(RFM Ⅲ71 )

(証明と合意形成、概念形成については、先に「説明」の周辺(7) で軽く触れた。それらとカントの<反省的判断力>との関連についても、暗示にとどまるが、「説明」の周辺(10) で触れておいた。)

 

とはいえ、「表情」の記述が、つねに新しい比喩でなければならぬわけではない。

(「手垢にまみれた」記述、というものも存在する。)

あるいは、それを常に「美学的説明」と呼ぶべきでもないだろう。

 問題を明確に捉えるためには、さらなる考察が必要となる。