操作と結果

1.

先の問いかけを確認した上で、経験的命題と文法的命題の使用の違いという問題に戻る。例えば『数学の基礎講義』のある個所では次のように述べられている。

 同じ外見をした経験的命題と数学的命題の差異について、私がもし誰かに大雑把なヒントを与えるとしたら、非常に粗っぽい、この上なく粗雑な言い方になるが、こう言おう:数学的命題には、つねに、「定義により」という字句を添付することが可能である、と。WLFM, p111)

 また、ある箇所では、

 数学の中にあるのは、例えば、「・・・の整数を書き記せ」といった命題と共通したシンボルを含む命題である。しかし、数学の命題では時間的要素が登場しないのに対して、他方の命題には登場するという違いがある。(WLFM, p34)

 ここで、「時間的ー「非時間的」の対立が言及された。それが例の「2つの使用」の区別に関わるものである事はすでに見てきた
この対立は、『数学の基礎』の中でも、幾度となく俎上に上っている。(例えば、RFMⅠ101~103)

 

2.

しかし、その対立を取り扱う前に、ウィトゲンシュタインのテクスト、特に『数学の基礎』のなかで何度も繰り返し問題にされている、規則使用の別の側面にまず注意しよう。

 

一般に、規則は、「これは、その規則に合致しているか」と問うことのできる事例、すなわち、それが適用される事例 をもつ。四則計算の場合だと、特定の数に対する計算的操作の実例がそれである。

問題の、規則使用のある側面とは、規則に従おうとした操作(過程)の結果が、「その操作が当の規則に従う操作であったか否か」の判断の規準となる、という使用の構造のことである。
この場合、規則が述べるのと異なった結果が得られたら、行った操作は「当の規則に従う操作」あるいは「当の規則の適用」ではない、とされ、規則自体は訂正を免れる。
操作「+1」が4に適用されて5以外の結果が出てきたなら、その操作は実は「+1」ではなかったのである。

 さて、人は次のように言う:われわれがかくかくの仕方で教わった、+1の規則に従う基数列においては、449に450が続く、と。われわれが449に対し+1という操作を適用した際には449から450に進む、という命題は経験的命題ではない。むしろ、それは、結果が450である場合に限ってこの操作を行ったことになる、という規定なのである。(RFM Ⅵ 22)

 そして、しばしば、規則に従って生み出された結果はそれ自体が規則として扱われる。
「証明」はそのようにして結果を生み出し、その結果を規則として承認する手続きである。

 この加算手続きはもちろん400を結果として与えた。だがこの結果を、われわれはこれらの数の正しい加え算の ーあるいはたんに加え算のー 規準とみなす。(RFMⅢ24 中村秀吉・藤田晋吾訳)

もし、規則は4から5に導く、という命題が経験的命題ではないとされるのであれば、この結果は、規則に従って進んだことの規準として受け取られねばならない。
このように、4+1は5であるという命題の真はいわば、重ねて確定されているüberbestimmt。操作の結果が当の操作が実行されたことの規準として 定義されることによって、重ねて確定されているのだ。
かの命題は経験的命題よりも一本多い脚で支えられている。そして「+1という操作を4に適用する」という概念の規定として使用されることになる。今や我々は新たな意味において、誰かが規則に従ったか否かを判定することができるのだ。
このようにして、4+1=5は、それ自体が規則となり、われわれはこれに拠って諸々の過程Vorgangを判別する。
この規則は、われわれが他の過程を判定する規準になるものとみなす、ある過程の結果である。そのような規則を根拠付ける過程は、規則の証明である。
(RFMⅥ16  cf.RFMⅣ 7)

 だが、「規則に従う」行為自体がつねに結果を規準として判定されるとしたら、新しい結果を「規則に従って生み出された」と判定することには循環がある、と指摘されるだろう。しかし、今はそのことは措いておく。

ともかく、一方で、操作(手続き、過程)の正しさは結果が規準となり、他方、結果の正しさは正しい操作が規準となる。
こうして、操作(手続き、過程)と結果が論理的に結びつく。

他の形象Figurから、ある規則に従って導出された形象。(例えば主題の転回。)
こうして結果は操作に等価なものとなる。(RFMⅣ40)

しかしよく眺めよ!そしてその仕方が結果をすでに前提していないかどうかを見よ。
 というのは、この仕方であるときにはこの結果が、またあるときにはあの結果が出てくると想像した場合、君はそれを受け入れるだろうか。「私は間違えたに違いない。同じ仕方だからいつも同じことがでてこなければならないはずだ。」といわないだろうか。これは、君が変形の結果を変形の仕方に入れていることを示している。(RFMⅠ 86 中村・藤田訳)

しかし、なぜ、次のものは真の予言でないのか?:「もし君が規則に従うなら、君はこれを得るだろう」 それに対して、次のものは確かに真の予言なのである:「もし君が規則に従うことにベストを尽くすなら、君が得るのは・・・」答えはこうである:前者が予言ではないのは、次のように言うこともできたからである:「君が規則に従うなら、君はこれを得なければならない」。 結果が 規則に従ったか否かの規準となるように、規則に従うという概念が決定されるなら、そのとき前者の命題は予言ではない。(RFMⅥ 15 )

このテーマは『数学の基礎』『数学の基礎講義』のなかで繰り返し取り上げられている。(例えば、RFMⅠ12,54,82-87,120、Ⅳ50,51、Ⅶ4、WLFM p53, p 128-9, p290)

言語行為論のdirection of fitの概念で言えば、規則の表現と行為との関係はworld-to-wordの方向性を持つ。
すなわち、word-to-worldの方向性を持つ「予言」とは区別される。

direction of fitの議論の源流とされるのはアンスコムが『インテンション』で持ち出した買い物リストの例である。いうまでもなく、彼女自身が、『数学の基礎』他、ウィトゲンシュタインの遺稿出版の編集者、英訳者であった。『インテンション』での議論にウィトゲンシュタインからの影響を考えるのは自然なことと言えるだろう。