「説明」の周辺(30):概念の瘤

1.

前回まで、問題にしてきた「表情」に関する言明― その中でも「意味の体験」に関する言明について、それに対するウィトゲンシュタインの姿勢を、簡単にメモしておきたい。

(ここでは、さまざまな事例を一まとめに扱ったため、大雑把な総括になっている。そのことは承知の上で、一つの作業段階として記しておく。)

2.

 ①「病的伝達」(LPPⅠ73)への衝動の存在を認める。そのような「衝動」は、我々に対して、ある「像」が自らを押し付けてくることとして捉えられている。

 我々は、「シューベルト」という名前が、その担い手やシューベルトの作品にぴったりと合うという関係に何ら立っていないことを、とてもよく知っている。そして、それでも我々は、ぴったりと合うという風に表現したくなる衝動Zwangに駆られるのである。(LPPⅠ69、古田徹也訳)

何かを表現力豊かに読んでいるときにこの言葉を発音する場合、それは、それ自身の意味で満ちあふれている。―「もし意味が言葉の使用であるのなら、どのようにしてそんなことが可能なのか?」つまるところ、私の表現は比喩的にbildlich 用いられたのだ。ただし、私がその像を選んだというよりは、像が、自身を私に押し付けてきたかのように思われる。(PPF265、鬼界彰夫訳)

 ②彼は、それらの言明を「意味Bedeutung」「意味するmeinen」の本質から切り離そうとする。

あらゆる意図から引き離され孤立した語を「ある時はある意味で、別の時にはある別の意味で発話する」ことができること、それは、一つの現象であるが、意味の本質を捉えようとするものではない。(・・・)ここで問題となっているのは、いわば概念の瘤Auswuchsである。
「概念の瘤」のかわりに「概念の増築部分」と言うこともできただろう。―その意味で、その名の持ち主の特性を分かち持っているように見えることもまた、人名の本質には属さない。( RPPⅡ245-6)

しかし、彼の、この問題への態度は両義的に見えてわかりにくい。

彼の見解を粗っぽく言うなら、「意味の体験」に関するそのような言明は、「意味」という概念にとって、「非本質的」でありながら固有だ、ということである。

 しかし、そうすると問題が残る。なぜ人は、「意味するMeinen」ことをめぐるゲームのなかでその同じ言葉を使うのか。―彼は果たして他の言葉を使うことができるのか。彼は、同じ言葉を何か別のことに対して使うのだろうか。彼はそれについて別の説明を与えることができるのだろうか。( LPPⅠ67 古田訳)

しかし、そうすると問題が残る。なぜ我々は、例の意味することをめぐるゲームの場合にも「意味する」ことについて語るのか。これは目下の問題には全く属していない。我々が「意味する」という言葉をそこで使うのは、それがこの意味をもっているからである。我々にとっては、他の何ものも、他のどのような意味も、問題にならないだろう。それは甘受される事実なのである。(LPPⅠ78 、古田訳)

もちろんそれは、我々があたかも二つのものをしつこく同じ言葉で指示していて、もし両者が本当に異なるのならなぜそうするのかと人に問われる、というのとは異なる事柄である。―新たな使い方というのはまさに、古い表現が新しいシチュエーションで用いられることにおいて成り立っている。(LPPⅠ61、古田訳)

 そのような言明(「意味」の「新たな使い方」)に、彼がよく比較するのは、次の2つである。

「私は・・・であることを夢の中で知っていた」という言明(RPPⅠ224他)

「ボールなしのテニス(エア・テニス)」という概念(LPPⅠ854他)

ここで我々は、ある言葉の「一次的な」意味と「二次的」な意味について語ることができるかもしれない。自分にとってある言葉が一次的な意味を持つ人だけが、それを二次的な意味で使うのだ。(PPF276、鬼界訳)

③「表情」「感じ」が浮上してくる状況への注目、その解明。

 もしもの感じが、もしもの意味に当然に対をなしているもの、と見なされるならば、もしもの感じへの心理学的な関心は間違って考えられている。
それはむしろ別の連関の中で、すなわち、もしもの感じが登場してくる特定の環境との連関において、見て取られるべきものだ。(PPF41)

互いに密接に結びついているもの、結びつけられてきたものは、互いにぴったり合っているように思える。では、それらは、どのようにぴったり合っていると思えるのか?それらがぴったり合っているように思える、ということは、どんな形で現れるのか?(PPF50、鬼界訳)

cf. RPPⅠ338-343

④「病的伝達」は、どのように「病的」なのか。どのような類比によって、通常の伝達の文章に似た文章と受け取られるのか、の解明。
『心理学の哲学Ⅰ』§200、『茶色本』Ⅱ部を参照。