意図と予言

1.

これまでは経験命題的な使用と文法命題的な使用の違いを求めることを出発点にして進んできたが、今度は、二通りに使用されるのが「同じ命題」である、という側面に注目する。

 

「・・・を意図する」といった意図intentionの表現について。意図することと、その実現である事象との関係は「同一の記述をもつ」という文法的関係と見なし得ること、その時、意図の表現は、意図を実現する行為にとって規範の表現と見なしえること、従って「意図する行為を行うこと」は「規則に従う行為」の類型として見ることが可能なこと については、以前に触れた。(規則遵守と関連する行為

 

ところで、アンスコムによれば、意図の表現は一般的な形式として単純未来時制をとるものであり、反対に、どの子供においても未来時制を身につける際に支配的な役割を果たすものは、意図を表現するために未来時制を使用することである(Intention, p4)。

言い換えると、意図の表現と 未来時制の記述表現は、多くの場合にきわめて類似した形態をとる、ということである。アンスコムは英語を念頭にして言っているのであろうが、もちろん日本語においても類似は明らかである。

(例えば、新幹線に乗りたい人がJR大阪駅で電車に乗って「まず、私は新大阪駅に行きます。」と発言する。ーJR大阪駅から、上り下りを間違えて電車に乗った人が「このままでは、私は新大阪駅に行きます。」と言う。)

 

アンスコムは、『インテンション』において、意図の表現、命令、予測estimate等を、予言一般prediction in generalというカテゴリーにまとめた後に、その内部で区分することを試みたが、それにはウィトゲンシュタインの『探究Ⅰ』がヒントとなったと記している。

そこで、予言predictionというものの説明を、一つ行ってみたい。次の説明は有望に見える:人が、ある語尾屈折をとった動詞を含んだ文によって、あることを言う;同じ文で例の動詞の屈折語尾のみを変化させたものが、後に起こった出来事によって、真(または偽)であるといわれることが可能となる。

(・・・)ウィトゲンシュタイン(『探究Ⅰ』§§629-30)のヒントを受けて、まず予言一般prediction in generalを先のような仕方で定義し、その後に予言の中に、命令、意図の表現、予測estimates、預言pure prophecies等の区別を行うことができるだろう。(Intention, p2)

 

『探究Ⅰ』以外にも、例えば『心理学の哲学Ⅰ』で、ウィトゲンシュタインは、意図の表明の効用は何か、いかなるときにある表現が意図の表明であると言えるのか、と自問し、次のように答えている。

 どうして私は、彼の意図に関して疑いをもつのに、自分の意図に関しては疑いをもたないのか。いかなる意味で私は自分の意図を疑いの余地なく知っているといえるのか。私が自分の意図を知っていることの効用は何か。いいかえれば、意図の表明Absichtsäußerungにはどんな効用もしくは機能があるのか。つまりいかなるときにそれが意図の表明であるといえるのか。それはむろん、その発言に引き続いて行為がなされるとき、つまりその発言が一種の予言Vorhersageになっているときだろう。他人が私の行動を観察した結果としてするのと同じ予言を、私はそうした観察をすることなしにするのである。(RPPⅠ788 佐藤徹郎訳)

 「意図の表現」は普通の意味での「予測」ではない。つまり、意図された事柄が実現されなくとも、意図の表現は偽とされるのではない。(言語行為論の言葉で言えば、world to wordの方向性を持つ。)
その意味で、意図の表現は、予測でなく、規範(範型)としての役割を果たす。
しかし、それでもなお、意図の表現は「一種の予言」としても使用可能でなければならない。

しかし、次のことは真実といえる:われわれは多くの場合に、決意の表出 Äußerungから人の行動を予想することができる。一つの重要な言語ゲーム。(PI 632)

大雑把な言い方をすれば、「同じ表現」が、予言にも、意図の表明にも使用可能であるべきなのである。

2.

同じ表現が、word to worldにも、world to wordにも使用されるという例、その最もシンプルな形を、アンスコムが挙げる買い物リストの例に見出せる。

買い物のリストを手にして街を廻っている人物を考えてみよう。リストと彼が実際に買う品物との関係は、彼の妻がそのリストを手渡したとしても彼自身がそれを作成したとしても、どちらの場合でも同じであることは明らかだ。だが、彼を尾行している探偵が記録した買い物のリストの場合、その関係は違ったものである。かの人物が自分でリストを作成した場合はリストは意図の表現であり、彼の妻がリストを与えたとすれば、それは命令の機能をする。それでは、命令と意図の両者で共通であるが、記録にはない、起こったことに対する同一の関係とは何であろうか。(Intention, p56) 

まさしく、同じ「リスト」が、そのままの形で、3通り(命令、意図の表現、事実の記録)に使用される。

このリストのように、あるときは記述として、あるときには範型(言いかえれば規則の表現)として、われわれの実践の世界を循環するもの。おそらく、後期のウィトゲンシュタインはそれを「像」と呼んだ。

 

※ただし、ただ単語からなる「リスト」を、現実にウィトゲンシュタインが「像」と呼んだ、とは主張しない。(そうでない可能性が高い。)ここでは、後期ウィトゲンシュタインにおける「像」という曖昧な概念(文法と応用)に接近するための一手段として、この類比を提示している。