適用が正当化する

1.

前回、「・・・として見る」という表現の使用に関する考察を、まず、「意味する」という表現との類比によって進めていった。
「意味する」については、過去形での使用という、注目すべき用法があった。
その使用の条件でにとって重要なことは、ある時点からの「能力」の持続、であった。

その関連で、「・・・として見る」が、「意味する」に類比される別の言語ゲーム、すなわち「・・・を理解する」「・・・ができる」という発言に類比されることを見てきた。

 「あのときわたくしは・・・と言いたかった」という表現の文法は、「あのときわたくしは続けていくことができたのに」という表現の文法に近似している。
ある場合にはある意図の想起であり、他の場合にはある理解の想起である。(PI660 藤本隆志訳)

 なぜウィトゲンシュタインは「意味の体験」の重要性について否定的であったのかを、「意味する」と「理解する」「できる」の類比から考えてみよう。
私が自分の一連の会話における言葉遣いの説明のつもりで「私は‘いちご’でstrawberryを意味した」と発言したとしよう。この発言を正当化するものは、基本的には「意味した」時点の体験ではないであろう。というのは、その時点で何が起ころうとも、実際の言語使用において、私が一度も‘いちご’をstrawberryの意味で使わなかったなら、その発言は現実には正当化されないであろうからである。

 もしもいま私がこの問題を考える際に「君はお金をバンクに預けなければならない」という文を文脈から切り離して発音し、そしてその文でかくかくしかじかのことを意味したとすればーそれは私がその文を発音する際に、それをある現実の機会に誰かにこの意味で言う場合と同じことが私の心中で起こるということを意味するであろうか?いかなることがそのような想定を正当化しうるのか?せいぜい、私がその発言の後で「私はいま・・・という言葉を・・・という意味で言ったのだ」と言うことくらいであろう。そしてここで問題は一種の視覚上の錯覚なのだ!なぜなら実際の使用において私のこうした確認を正当化するものは、発音に伴う何らかの過程ではないからである。たとえこの意味を示唆するような諸過程がその発音に伴うことがありうるとしても。(たとえば視線の方向。)(RPPⅠ1053 佐藤訳)

 この点において、「私は‘いちご’でstrawberryを意味した」は、「私は指数関数の微分の計算法を理解した」「私は生身で飛ぶことができる」といった命題と類似した事情にある。これらの命題が言及している時点において私の中に何が起こるにせよ、それ以後、私が特定の実践において、しかるべき結果(例えば、テストで指数関数の微分を正しく計算する、体ひとつで飛行する)を一度も示せないなら、現実には「理解した」「できる」とみなされないであろう。

ゆえに、これらの発言においてわれわれがまず関心を持つのは、その時点での「体験」ではない、といわれるのだ。cf.PPF262,279,282

 

ウィトゲンシュタインはこのような状況を「適用は理解の規準であり続けている。」(PI146)と表現した。つまり、行為の結果が、「理解した」「できる」という発言をまず第一に正当化するという状況。

 たとえば、この最後の場合に、その言葉[「いまや私はその先を知っている」]を「ある心的状態の記述」と呼ぶのは、全く誤解をまねきやすいことであろう。ーむしろ、ここではその言葉を「シグナルSignal」と呼ぶことができよう。そして、それが正しく使用されたかどうかを、われわれは、彼がその先で何を行うかによって判定するのである。(PI180)

 PI143からの議論を参照すること。
これら3つの概念、「意味する」「理解する」「できる」の連関は、クリプキの「規則に従う」ことについての論考にも現れている。クリプキの議論が、「‘+’でプラスを意味する」という例を使用していたことを思い出そう。

2.

だが、その時の「状態」と「状況」によって、「理解する」「できる」さらには「意味する」という主張が正当と認められることも(現実の言語使用の中で)ありうる。実のところ、そのような「現在の状態および状況による正当化」を、単に付加的なものと見ることも、それらの概念に関するもう一つの重大な誤解なのである。PI181,182を参照。そのことについては、いずれ触れる機会があるだろう。

 

さて、「・・・として見る」の「時間的使用」は、先に示した「過去形での使用」に限られるわけではない。ウィトゲンシュタインが注目する別の「時間的使用」、それはある時間間隔における「・・・として見る」の持続を表現する使用である。それについては次回へ。