感覚によって知る

1.
前回、「直接的洞察」というテクストの言葉から連想し、類比によって集めてきた例を、アンスコムの言う「観察に拠らない知識」と比較してみた。

気になるのは「観察」という言葉である。
前回挙げた、「直接的洞察」のリストの内には、感覚が関係するものがいくつもあった(知覚判断、深部感覚、などの例)。「感覚する」ことは、即ち「観察する」ことではないのだろうか?

アンスコムは、

例えば、ひとは通常、観察に基づかないで自分の四肢の位置や状態を知っている。この場合、観察に基づかないというのは、彼に四肢の位置や状態を示すものが何もないからである。膝が真っ直ぐ伸びておらず、曲がっていると判断する場合、何か膝にうずきを感じてそれによって判断するわけではない。独立に記述できる感覚、つまり、それをもつことが何かを主張するためのある意味で規準になるような感覚を語りうる場合に、その当の対象を観察していると言うことができるが、われわれが自分の四肢の位置や状態を知る場合は、通常、そのような観察は成立していない。(Intention,p13, 菅豊彦訳p25)

と主張する。この主張の是非は今問わないとして、われわれの挙げた「直接的洞察」には、深部感覚のような意識に上らない「感覚」でない、意識され様々に語られうる感覚によるものが多数あるのだ。

 「どうかわかってほしい、私は怖いんだ」
「どうかわかってほしい、わたしはそれが怖いのだ」
そう、この言葉を、人はにこやかな調子で言うこともできるのだ。
その上でなお、君は、その人が恐れを感じていない、とわたしに言うのか。感じていないなら、彼はどうやってそのことを知るのだろう?-しかし、たとえその言葉が一つの伝達であるとしても、その人は、自分の内面からそれを読み取るわけではない。また、彼は自分の言葉の証拠として自らの感覚Empfindungenを持ち出すこともできないだろう。感覚が彼に教えるのではないのだ。
(LPPⅠ39, cf.PPF5)

「感覚が彼に教えるのではない」-これに対して 「君はその人が恐れを感じていない、とわたしに言うのか?」と問われるなら、「いや、感じていないと言いたいのではない」とウィトゲンシュタインは答えるであろう。「わたしは恐れている」と言表する人において、決して感覚の生起自体が否定されているわけではない。

この断章でウィトゲンシュタインが主張していることは次のようにまとめられるだろう。
「それを自分の内面から読み取るのではない」:判断のプロセスの面
「自分の発言の証拠として、感覚を持ち出すことはできない」:判断の正当化の面


「直接的洞察」を特徴付ける2つの側面がここで指摘されている。

「砂糖の味」の例(Z659)も、感覚と記憶を引き比べるというプロセスの生起は否定されているが、感覚の生起そのものは否定されていないことが明らかである。

2.

今までの例では、感覚が生起していながら、「推論」「推測」は生じていなかった。
一方、「観察によって、感覚(印象)から、ある結論を引き出す」場合も存在することを、ウィトゲンシュタインは認める。

 ある感覚Empfindungが手足の運動や位置について我々に教えてくれることはありうる。(例えば、常人と違って、目を閉じていると自分の腕が伸びているかどうか言えなくなる人も、肘への圧迫感を通してそのことが分かるかもしれない。)同様に、ある痛みの特徴もまた、傷のある場所について教えてくれることがありうる。(LPPⅠ389 古田徹也訳)

感覚印象Sinneseindruckがかたちや色について教えてくれるというのは、どのような規準によって言えるのか。(LPPⅠ393 古田訳、cf.PPF60)

 そこから内容を読み取るという意味での「感覚」というものの存在も、ウィトゲンシュタインは確かに認めていた。
だから、「感覚にもとづいて判断する」といわれる場合、そこには多義性がある。

3.
もう一つの問題。アンスコムが例に挙げた、深部感覚や運動感覚について。われわれは、視覚、聴覚、味覚などと違って、それらの感覚を表象する(represent)ことは、まれである。
たしかに

もちろんわれわれには運動感覚Bewegungsgefühleというものがあり、またそれを再現するreproduzierenこともできる。とくにわれわれがある運動を同じ状況において、短い間をおいただけで反復する場合。(RPPⅠ388)

しかしながら、

君は時折誰かが「私は彼のものごしをありありと思い浮かべる」とか「彼の声をありありと思い浮かべる」とかいうのを聞いたことがあるだろう。-だが「私はこのように手を動かすときの運動感覚をありありと思い浮かべる」と言うのを聞いたことがあるか?!ではどうしてないのか?
人はそれを思い浮かべてはいるのだが、ただ言わないだけなのか。(RPPⅠ383 佐藤訳)

しかも、

しかし、人がその運動のセンス・データとか、その運動についての媒介物を入れない内的心像とかいったものについて語ることができない場合でも、私は自分がいかなる運動をしたのかを端的に知っているのである。(RPPⅠ390 佐藤訳)

(ここでの「自分がいかなる運動をしたのかを(端的に)知っている」こともまた、「直接的洞察」の一つとして挙げることができよう。)

ゆえに、次のように問われる。

視覚的な運動については像による描出Darstellungが存在するのに、<運動感覚における運動>についてはそれに対応するものがないということはどの程度重要なことであるのか。(RPPⅠ385)

4.
ウィトゲンシュタインは、深部感覚の特殊性の問題から発して、ある事柄を「感覚から判断」している、ということの規準を問う。

自分には自分の手足の位置や運動が感じられるのだ、自分にはある感覚Gefühlがそれらの位置や運動を知らせてくれるのだ、と言う人に対して私は何と答えるべきであろうか。(・・・)私はその人に次のように問いたい。いかにしてある感覚がその人にたとえば手足がこれこれの位置にあることを教えるのか、と。あるいはより適切に表現すれば、自分の感覚Gefühlがそれを自分に教えるのだということをその人はいかにして知るのか、と。(RPPⅠ790 佐藤訳)cf.RPPⅠ405

いうまでもなく、解剖学的に、深部感覚に関係する様々な小器官が発見されている。また、脳血管障害等で神経伝達に異常が生じた場合、深部感覚に異常が生じることは珍しくない。それらのことは、ここで深部「感覚」について語ることを強く正当化するように見える。だから、「位置感覚、あるいは運動感覚は存在するというべきか否か」を問うことは、そもそも日常的言語使用に一致しない、差異の不当な強調だと言われるかもしれない。
しかし、ウィトゲンシュタインが敢えてそのような言い方もするのは、文法的な差異を問いたいがために他ならない(cf.PPF62)。


これらの問題をここでさらに追及する余裕はないが、いま確認しておきたいのは、「感覚から判断する」「感覚によって知る」等の言葉は多義的なのであり、感覚と判断の関係は、単一の図式にあてはまるようなものではない、ということである。

 

5.

もう一つ、有得べき誤解について。
「直接的洞察」の言語ゲームが理由を持たないとしても、そのことは、けっしてそれが原因なしに起こることを意味しない。

生理学的に見れば、例えば一枚の古い写真を見るとき、私の脳の中でさまざまな段階的な情報処理過程が生起し、「視覚によってもたらされたデータ」から、「この犬は怒っている」という判断が生まれる。しかし、そのような情報処理過程が行われるということと、言語ゲームとしての「推論」が行われることを短絡的に同一視してはならない。
私が行い、表出する言語ゲームと、それを因果的に説明する言語ゲーム、たとえば、生理学的な説明。後者の「ステップ」を前者の言語ゲームの「ステップ」と混同してはならない。

ここでわれわれが取り上げているのは、大まかに言うと、次のような事例である。ある語の文法をみると、ある中間的なステップが「存在しなければならない」ように思われるが、実際はそのような中間的ステップなどない場合でもその語が使われている、という場合。たとえば、「人はある命令に従う前にそれを理解しなければならない」「自分の痛む場所を指す前にその場所を知っていなければならない」「その曲を歌える前にそれを知ってなければならない」というようなことをわれわれは言いがちなのである。(BBB p130)

 

ここで言われている「ステップ」は言語ゲーム上のステップである。それを否定するからと言って、当の過程が何らかの生理学的過程なしに生じると主張されているわけではない。 

一方で、「理由の連鎖には終わりがある」ーさらに「原因」を捜し求めることを、「理由」の追求と混同してはならない。

  この場合、またこれに似た幾千の場合に我々が陥りやすい誤りは、「我々がやっている仕方であの規則を使うようにさせるものは、洞察の行為ではない」、という文で使われた「させる」という語にあらわれている。我々が或ることをするには「何かがそうさせるのでなければならない」、という考えがそこにあるからである。そしてこれが更に、理由と原因の混同と一緒になるのである。[しかし]我々がする仕方であの規則に従うための理由を我々はもつ必要はないのである。理由の連鎖には終わりがある。(BBB p143 大森荘蔵訳p230)

6.

我々の行っている言語ゲームの文法と、それを因果的に支えている生理学的メカニズムが、外見上「ずれている」ような例も考えられる。
例えば、「アオ」が青も緑も意味するような、独立した「青」「緑」に相等する言葉が存在しない言語を想定してみよう。

ヒトの網膜には、赤、青、緑の光にそれぞれ反応する3種の錐体細胞が多数分布しており、それぞれの興奮のパターンによって、受容した光の色彩が決定され知覚される。
とすると、色彩の概念として、「赤」「青」「緑」という3つの概念は基本的であるべきで、「青」と「緑」を「アオ」という概念にまとめる先の言語は「正しくない」のか?
もちろん、そうではない。そのような言語を使用することは、決して「間違っている」わけではない。

ウィトゲンシュタインは、借金があることが「負数」という概念の使用を必然化・正当化するわけではない、という例を挙げている。

  君がいつも見るように色のついた対象を見るがゆえに、自分は色の概念をもつのだ、と信じてはならない。(それは君に負債があるからといって、負数の概念をもつことにはならないのと同様である。)(RPPⅠ644  cf.Z332)

 これは ウィトゲンシュタインが繰り返し強調した、「文法の自律性」という論点である(cf.Z320)。