1.
「合うpassen」、「できる」、「理解する」の文法。問題:1)シリンダーZが中空の筒Hにぴったり合う、といつ言うのか?ZがHにはめ込まれている間だけか?(PI 182、鬼界彰夫訳)
シリンダーに関するウィトゲンシュタインの問いかけが、さりげなくも興味深いのは、それが「志向性を述べる文」「目的を説明する文」への問いのアナロジーとしても読めるからである。(実際、彼は『探究Ⅰ』§439で、志向性とシリンダーを類比している。)
2.
ウィトゲンシュタインが、言語と意味に関する考察の裏で意識してきたパラドックス。それは、広く、志向的状態に関するミステリーとしても現れる。一つのヴァリエーションは次である。
もしそれがあまりに馬鹿げているのでなければ、われわれはこう言いたいところだ:われわれの願望する事実は、願望そのものの内に現前していなければならない。だって、これそのものが願望の内にないのであれば、どうしてこれそのものが起こるのを願望することができるのか?(BBB, p37)
次の例を考えよう:「私は武田信玄に憧れた」― 「私」が憧れたのは、武田信玄その人である。彼の弟信繁や、彼にそっくりな影武者であったとしたら、文の意味がまったく異なってしまう。
さらに、「武田信玄の表象」では なお駄目だ ― 私が憧れているのは「表象」ではなく「その人」である。
しかし、「私」は、武田信玄その人とは何のかかわりもない。何のかかわりもない事象同士(「私」と武田信玄)が、なぜにこうも強く、絶対的に結びつくのか?
これを、「志向性の謎」と呼んでおこう。
「意味」だけでなく、「目的」「機能」といった概念にも、志向性に関連した困難を見ることができるだろう。
意味、機能、目的、有用性Nutzen―互いに関連した概念。(LPPⅠ291、古田徹也訳)
じつは、意味、機能、目的の三つには、あまり気づかれないけどとても重要な共通点がある。それは<いまそこにないもの>あるいはいまそこで現実化されていないことがらにかかわるということだ。(戸田山和久、『哲学入門』第2章)
ただ、これらの概念において「困難」は、「志向対象(目的、機能)の決定不能性」のような形で現れるだろう。ここでは立ち入らないが、フォーダーによる目的論的意味論批判(「カエルの表象内容の謎」)を参照。
(戸田山和久『哲学入門』第一章、信原幸弘『心の現代哲学』第四章)
3.
この「謎」に影響されて、あるいはそれを解消しようとして、次のように考えたくなる。
我々は「彼が来る」という言葉を、「彼が来るのを期待している」という文では「彼が来る」と主張する場合とは違った意味で使っている、と人は感じるかもしれない。(PI444、鬼界訳)
あたかも、私が期待の中で志向する対象は「(私の期待の中の)彼」であって「(実在の)彼」でないかのように。 そうでなければ前述の「謎」に陥るから、というわけだ。
だが、
しかし、もしそうなら、なぜ私は自分の期待が実現したと言えるのだろうか?(同上)
例えば、事実を主張する文のなかの「彼」と、期待の言表の中の「彼」とに別々の言葉(それぞれ「彼₁」、「彼₂」としよう)を使っても、困難は解消しない。今度は、「彼₁が来ることで、私の予想が満たされるのはなぜか?」「両方の語(彼₁、彼₂)に同じ説明が適用されるのはなぜか?」と問われることになる。
もし私が 「彼」と「来る」という言葉の両方を、例えば、対象を指し示すことによって説明しようとすれば、これらの言葉について、どちらの文でも同じ説明が役に立つだろう。(同上)
二つの「彼」は、文法的に同一でなければならない。「来る」についても同様。ここで再び、経験的でない、強固なつながりが出現してしまうのだ。つながりは、ずらされただけで、解消していない。
4.
「志向される対象」は、「その対象」そのものでなければならない、という考えを詰めてゆくと、次のパラドックスに突き当たる。
この(当たり前のことのような姿をした)パラドックスは、また次のようにも表現できる:人は事実でないことを考えることができる。(PI95)
現実でない事態Aを考えることは、「事態Aの像」について考えることではない。たとえ「事態Aの像」を前に考えているとしても、像を通して「Aそれ自体」について考えているのだ。
同様に、人は指示対象が存在しない言葉を使って語ることができる。
そのような名詞(句)の謎に関する、ラッセルやクワインの仕事はよく知られている。
しかし、その「謎」に対する、より素朴な反応は、類似した次の例(「不在の人を探す」)への反応に読み取れる。
彼が現にいないときでも、彼を探すことはできる。しかし、彼を縛り首にすることはできない。
こう言いたくなる、「もし彼を探すのなら、やはり彼はいなければならないdabei sein müssen。」と。― そして、彼が見つからない場合でも、あるいはさらに、彼が存在しない場合でも、彼はいなければならない、と。(PI 462)
「探す」と同様に、ある対象について語ることが意味を持つためには、とにかく、何らかの形で、その対象が現存(現前)していなくてはならない、という考えが現れる。
(裏返せば、現存(現前)していない対象について語る言葉は無意味である、という考えになる。)
たとえば、次のようなことを言いたくなるかもしれない。
言葉の意味する対象は、たとえ現実には不在であっても、観念の世界に実在していなければならない。
なぜなら、
1)「私は“卑弥呼”で、邪馬台国の女王を意味している」と言う
2)「私は“富士山”で、日本一高い山を意味している」と言う
「邪馬台国」の実体は謎で、実在を疑う余地もある。その「女王」についても同じ。それに対して、「日本一高い山」の実在は疑えない。
だからといって、1)の「意味する」が、2) のそれに比べて、不確実、ということにはならない。そのためには、言葉の意味が観念の世界に実在しなければならない。
そのように、例えば
ある語である事象を意味する、と述べることが正当であるのは、その事象が、意味している人にとって現前している時である。
と考えるに至る。
これは実際、『論考』の名Nameの意味論の根底にあるアイデアに近い。(ただし、「ある語がある対象を意味する」は、『論考』においては語りえないことであったが。)
名が 意味する「対象」を失うことがないがゆえに、『論考』では「否定命題の謎」(ここで言う「志向性のパラドックス」)が解消されるのである。
5.
このような考えを粗っぽく一般化するなら、
「ある人が、ある事象に、特定の志向的態度をとっている」という種類の文が正当に使われるのは、その事象が、志向的態度とともに現前しているときである。
ということになるだろう。
これを、前回見た、「できる」と言うことについての観念と比較すること。
私があることをできる、と言うのが無条件に正しいのは、私がそう言うと同時にそのことを実際に行っている場合である。そうでない場合は「私は、・・・の限りにおいてas far as...is concernedそれができる」と言うべきである。(BBB, p116)
これらの文を、「シリンダーの内筒Zと外筒Hがぴったり合う」と言えるのは、あるいはこの文が真であるのは、本来、両者が実際に組み合わされている場合のみだ、という考えと比較すること。
これらの考えに共通しているのは、「本来的規準を満たすこと」に引きずられて、志向性について述べる文の有用性を見失っていることである。
前回の例を思い出そう。
シリンダーが実際に組み合わさっていないからこそ、「A社の外筒にはB社の内筒がぴったり合う」という文が有用なのである。
実際にプログラムしている最中でなく、企業の採用面接の中だからこそ、「私はプログラミングができます」という発言が役立つのである。